第二十九戦:vs 祇園藤次 ”再戦”(第22巻より):他人の武士道を笑うな|バガボンドを勝手に読み解く

AUTHOR :  田中 耕比古

武士の魂とはなんなのか

この連載では、バガボンドの主人公 宮本武蔵の”戦闘”シーンを抜き出し、武蔵の成長について読み解いていきます。連載第29回の今回は、宝蔵院で会いまみえた祇園藤次との再戦をとりあげます。

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京都のどまんなかで出会う

前回、吉岡清十郎を倒した武蔵は、傷ついた体のまま吉岡伝七郎との決戦の場「蓮華王院」の下見にでかけます。ケガは完治とはいかず、左目は包帯でおおわれて見えない状態です。そんな状態でふらふら街歩きをするのは凡人たる僕の目から見れば不用意の極みですが、武蔵は飄々としたものです。

無事、下見を終えて身を寄せている本阿弥光悦の家に向かう道中、なんと吉岡伝七郎と出会ってしまいます。伝七郎は「武士」なので、兄を殺した武蔵に対して、今、この場では争わず、決戦の日に万全で戦おうという態度で向き合います。

そこに、武蔵の背後(つまり、伝七郎とは反対側)から、大きな叫び声が聞こえます。

何故そいつを斬らん 伝七郎ーーー!!!

そう叫ぶや否や、刀を抜いて猛ダッシュで間合いを詰めてきます。そう、宝蔵院で会いまみえた、あの ”天才” 祇園藤次です。( 連載15回 参照 )

一閃で、一蹴。

先述した通り、武蔵は片目が塞がれています。片目では遠近感がつかめないというのは、皆様ご存知の通りかと存じます。これは、斬り合いにおいては、間合いが測れないという致命的な弱点になります。(そう思うと、柳生十兵衛とか、伊達政宗とか、斬り合いでは不利すぎますよね。)

そこで、武蔵は「片目だと知られないようにする」「間合いを別の方法で測る」という作戦を選択します。

まず、左目が包帯でおおわれていることを気取られないように、相手と正対せず、右肩を前に、相手に背中を見せるように構えます。これによって左目の状況が相手に見えないわけですね。この体制で構えるということは、左腰に帯びた刀を鞘に納めたまま、間合いに入った相手を「居合」の型で、左下から切り上げるということになります。

続いて、間合いです。上述した居合での切り上げを選択すると決めた武蔵は、その型での己の刃圏を見極め、地面に足で線を引きます。相手が、この線を踏み越えた=相手に刃が届くので、その瞬間に居合いで相手の急所を切り裂こう、という作戦です。

果たして、武蔵の思い通りに事は運び、武蔵は迫りくる祇園藤次の首を切り落とさんばかりの勢いで、一閃します。勝負ありです。

祇園藤次は、絶命する間際、こう呟いて果てます。

貴様は強くなり 俺は弱くなった・・・
もう何がなんだか・・・
はは

剣にさえ 愛されぬのか

彼も、剣の道に生き、強さを求めて究め、殺し合いの螺旋から降りられずに死んだ、不遇な剣豪の一人なのでしょうね。

「武士」たる伝七郎

さて、この戦いを傍観していた伝七郎に対し、武蔵はこのように述べます。

斬りかかっていれば・・・ 俺は全く見えてはいなかった
道場経営に精を出していればよかったものを・・・

話は少し戻りますが、武蔵が居合の構えで祇園藤次を迎撃した際、彼は背後に位置する伝七郎のことがまったく死角となっていました。構えていた時の武蔵の言葉を引用します。

今 伝七郎に来られたら全く見えん

そんときは・・・
もう しょうがねえ!!

武蔵は、リスクを背負うことを決め、祇園藤次との戦いに集中したわけです。背後は「捨てた」のです。

そうやって「背後を捨てる」に際して、武蔵は、伝七郎の武士道精神に賭けたわけではありません。武蔵は「勝つことが重要」だという信念で生きています。そして、前回倒した吉岡清十郎もそうでした。この、絶好の機会に背後から斬りかからないなんてありえない選択なわけです。

だから、武蔵は、伝七郎をdisるわけですね。

でもさ、武士道って立派じゃん

でも、どうなんでしょうね。僕は、伝七郎って立派だと思うわけですよ。武士道、すごいじゃん。格好良いじゃん。って。

問題は「強い奴が武士道を語るかどうか」なんですよね。そこに尽きます。いや、まぢで。もちろん、伝七郎だって、凡人に比べれば圧倒的な実力を持っています。ただ、兄である清十郎のような天才と比べると一段劣るわけです。残念ながら。

強いから勝つ のか 勝ったから強い のか。武蔵や清十郎は後者に属します。そして、実際に勝ち、そして強さを証明してきました。一方の伝七郎は前者の思想に属していると僕は思います。そのために、修行し、鍛え、強さを身につけることで自ずから勝つ、のです。どちらが正しいということではなく、単なるアプローチの違いでしょう。

武蔵も、少しずつ変わってきています。彼自身、「戦わずして勝つ」「戦う前に勝っている」という状態があるのではないか、と気づき始めています。アプローチは違うが、やはり、最終的に辿り着くところは同じなのかもしれません。結局は「勝つことを最終目的に据え、そのために修練を積む」ということが武士道なのです。負けてもいいとは誰も言ってません。

結局、大事なのは「何を言うか」ではなく「誰が言うか」なんでしょうね。武士道の大切さを、胤栄が語れば、あるいは、柳生石舟斎が語れば、通るかもしれません。もしかしたら、柳生兵庫助でもいいかもしれません。しかし、修行の道半ばであり、天賦の才にも欠ける伝七郎が言うことに、無理がある、ということでしょう。

また、この思想に至ること自体が「才無き者」の証なのかもな、とも思うわけですよ。天才は「勝つから強い」に至っちゃうんですよね。だって、普段勝ててるのが当たり前だから、勝ち方にこだわる必要性を感じない。自分より強いものが出てきたときに負けてはいけない。よって手段は選ばない。一方で、才無き者は、負けることを経験し続けている。だから、勝ち方にこだわる。卑怯な手は使いたくない。泥臭い努力の結果、スマートに勝つことを志向するんですよね。

僕の周りには伝七郎のファンが結構います。やっぱ、凡人だね。僕たち。笑

倫理観無き者が、倫理観のあるものを笑うな

話は変わりますが、ビジネスにおいて倫理観というものは大切です。この倫理観とは、武士道に通じると僕は思っています。人によって、倫理(=武士道)の形や程度、その現れ方が様々です。しかし、倫理観がない人とは仕事はできません。最低限のラインというものがあると思うのです。「勝てばいい」とビジネスで言い切ってよいのか。闇討ちもOKなのか。いえいえ、やっぱり違いますよね。最低限のルールに則りましょう。

多分、修行中から倫理観、倫理観と言っていても、だれも理解してくれないんですよね。(仲間や身内は理解してくれると思いますけども。) 倫理で飯が食えんのか、とか言われますよね。わかります。わかりますよ。飯食ってナンボですよ。

しかし、ある程度の成功を収めた瞬間に、倫理観に則ってビジネス運営することが求められます。社会的責任、みたいなことです。これを、成長の足枷とみるのか、成長の証とみるのかが、まさしく経営者の倫理観の問題なんだよな、と思うわけです。

僕は凡人ですし、弊社もまだまだ成長ステージのかなり前半にいる状況ですから、偉そうに倫理観を語っても誰も耳を貸してくれないと思います。成功しないと(勝たないと)話にならんのですよ。でも、その一方で、このタイミングから倫理観を持っておきたい、僕なりの武士道をもって仕事に臨みたい、というのは、譲れないポイントでもあるわけです。だから、倫理観のないビジネスをしている人には批判的な気持ちを持ちますし、倫理観を持ってビジネスをしていて未だ成功できていない人にも一定の敬意を払いたいと思うのです。

結局のところ武士道とは、誰かに向けて言うものではなく、己の心の中にしまい込んでおくべきものなのかもしれませんね。(と、ブログに書いちゃう浅はかさよ。)

 

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