第二十七戦:vs 宍戸梅軒 (第12-13巻より):二刀流はスパイラル成長の証|バガボンドを勝手に読み解く

AUTHOR :  田中 耕比古

成長は一本道ではない。ぐるぐる回るのだ。

バガボンド(12)(モーニングKC) バガボンド(13)(モーニングKC)

この連載では、バガボンドの主人公 宮本武蔵の”戦闘”シーンを抜き出し、武蔵の成長について読み解いていきます。連載第27回の今回は、鎖鎌の名手 宍戸梅軒との戦いです。

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死神、再び

釘を踏んだ足の傷が癒えた武蔵は、鎖鎌の使い手と名高い、宍戸梅軒の元を訪れます。しかし、近くの民家で、宍戸梅軒はもう死んでいる、という話を聞きます。野党の頭であった宍戸梅軒が死んだ後に、何故か武蔵のような武芸者が訊ねてくるようになった、というのです。

疑問を抱えたまま武蔵は宍戸梅軒の家に辿り着きます。そこに居たのは、宍戸梅軒を倒した後にその武器だった鎖側を究め、また、その名を名乗っていた男「辻風黄平」がいました。死神 辻風黄平 は、天賦の才=戦闘センスをいかんなく発揮し、鎖鎌を究め抜いています。

梅軒:殺したい 訳じゃない
武蔵:俺にも 殺す理由はない
梅軒:鎖鎌を見たいなら 見せてやる
武蔵:見たい
梅軒:ただ 俺は――― 殺す以外に見せ方を知らぬ
武蔵:それでいい

二人は、昔の禍根などは忘れ、純粋に武芸者と立ち会うことになります。

甘っちょろい油断

武蔵は、前回、釘を踏み抜いた自分に対して、強い憤りを感じていました。油断している、気を抜いている、と。そして、そんな自分を理解し、改善したはずでした。しかし、宍戸梅軒と対峙し、初撃を避けきれずに鼻の骨を砕かれた瞬間に気づきます。

ふと武蔵は気づいた
この梅軒に較べて自分は――― 命のやりとりになるであろう 戦いの準備が出来ていないことに

宝蔵院胤舜との戦い 柳生四高弟との戦い 天下無双 石舟斎との対峙
己の全てをぶつけた戦いのあとで生じた 心のすきま

あのとき* 気づくべきだったのだ
甘っちょろくも 油断していたと―――

*田中注:釘を踏み抜いてしまったとき

そして、その油断を抱えたまま、初めて見る武器「鎖鎌」の間合いと、鎖の動きに翻弄され、窮地に追い込まれます。(背後を取られ、首を鎖で締められるという圧倒的な窮地。)

不覚!! 不覚っ!!
この俺が 心に戦いの用意もなく臨んでしまった
そんなもの 平常 いかなる時でも 持ってたはずじゃねえのか

柳生を出てから どいつもこいつも下らなく見えた
それで慢心――――?

俺が柳生という訳じゃないのに

不覚っ・・・・・・!!

起死回生の二刀流

その絶対的な窮地から、武蔵は、首に食い込む鎖を外さんと、自らの指を首に食い込ませて(というか、差し込んで)首の肉ごと鎖を掴み、剛腕で引きはがします。

戦いの覚悟を決めた武蔵は、改めて宍戸梅軒と対峙します。その獣のような気迫が、宍戸梅軒の中の死神「辻風黄平」を呼び覚まし、命のやりとりが始まるわけです。

辻風黄平と向かい合った武蔵は、「見るともなく見る」「先を取る」といった、これまでの戦いの中で学んだことを思い出していきます。見るともなく全体を見ると、鎖+分銅という間合いの長い武器を持つ相手の方が「先」を取れるのは自明の理だと気づきます。先を制し、次の先を取るしかない、と考えた武蔵は、そこで、父 新免無二斎に幼少期に叩き込まれた「十手術」に習い、左手に大刀、右手に脇差という、二刀流の構えをとります。

しかし、大袈裟に、大上段に構えるわけでもなく、両手をだらんと下におろした「無形の型」というか、矢吹丈のノーガード戦法というか、そういった構えです。

その構えの大きさ(という表現しか、僕には思いつきませんが)に圧倒された黄平は、渾身の一撃として分銅を投げ込んできます。武蔵はそれを左手の脇差で受け、相手が分銅を戻そうと鎖を引くのに合わせて間合いを詰めたかと思うと、鎌で応じる隙も与えずに右手の大刀で上段から切り下ろすのでした。

二刀流は伊達や酔狂ではなく、必然である。

今回の戦いで、武蔵は、初めて”意識的” 且つ ”戦略的”に 二刀流を構えます。

これまでも、吉岡道場に殴りこんだ際、吉岡伝七郎に対して折れた木刀を両手に持ったり、胤舜戦で折れた木槍を持って二刀のように構えたり、柳生の四高弟との多対一の状態で脇差を抜いて二刀の構えをしてみたり、ということはありました。しかし、どちらの場合も、脇差(というか、右手に持った短い方)を相手に投げつけただけでした。

しかし、今回は「攻守を同時に満たす構え」として、二刀を構えます。そして、実際に、宍戸梅軒の分銅を脇差で受け(=守りに用い)、そして大刀を攻撃に用いることで勝利したのです。

その考え方は、父 新免無二斎の究めた十手術に通じています。

攻めと守り ―――
二を一にするのが 十手 ―――

父、新免無二斎に幼少期に受けた教えが、体に染みついていたのです。

スパイラル型で成長しろ

過去の否定は大事なことです。しかし、過去の積み上げの上に自分があることもまた、紛れもない事実です。

僕たちも、以前書いたパワポのスライドに「はっ」とさせられることがあります。(つい先日、まさにありました。)昔の自分たちと今の自分たちは、基本的には同じことを言っている。でも、その上に、いろんなものが積み重なっていって、パッと見すると、同じようなところに帰ってきている。

そこに至る途中経過としては、一度捨ててるんですよね。忘れてしまったり。縛られないように気を付ける。その後、いろんなことを考えて、考えて、考えて、考えて、もう無理だろってくらいに考え抜いた時に、ふと気付くと、同じようなところ(思想)に戻ってきている。ただ、まったく同じわけではなくて、元の場所よりも数段高みに辿り着いている。

そういう感じです。

守破離と言う言葉もありますが「守」が大事だ、というお話は、今回のお話にも通じます(※守・破・離は全て”型”に対する姿勢のお話です)。”型”をしっかりと守る=身に付けていれば、例え一度忘れたとしても、必要に応じて思い出し、活用することが可能です。反対に”型”をおろそかにしていると、後で活用しようとしたときに、応用が利きにくくなります。基本って、本当に大事なんですよね。

俺が柳生という訳じゃないのに

今回の読み解きで、もう一つ大事なポイントがあります。それは「俺が柳生という訳じゃないのに」という武蔵の言葉です。

世の中には、自分の所属する会社や組織の社名に強いこだわりを持つ人がいます。僕自身、企業に属しているときには、そういう気持ちになったこともありますし、仕方のないことだと思います。(そういう意味では、起業した今は、自社の認知力+ブランド力をどんどん高めないと、社員の皆に申し訳が無いという気持ちがあります。)しかしながら、何かに所属しているからと言って「自分が強くなった」と考えるのは愚の骨頂です。実際に、吉岡一門も、柳生家も、自らの力では勝負できない人達が沢山いました。

ただ、武蔵が言う「俺が柳生という訳じゃないのに」は、ちょっと観点が違うと思うんですよね。武蔵は、柳生という概念の話をしています。天下無双と畏れられながら、慢心するということもなく、他流試合を禁じ、謙虚に、日々己の技を磨き続けている孤高の存在としての「柳生」のお話だと思うんです。

柳生の里を見て、その森の美しさに「戦乱に乱されていない強さ」を見た武蔵。そんな武蔵だからこそ、柳生という存在を「柳生という看板」ではなく、「孤高の存在」として捉えることが出来ているのでしょう。そして、そういう存在に自分がなったわけでもないのに、世の中を「くだらない奴らばかりだ」と蔑んでいたことに、彼自身の至らなさを見ているのだと考えられます。

自省する、つまり、自己否定をするって本当に難しいことなんです。先ほども「捨てる」と言いましたけれど、なかなかできるもんじゃないです。ただ、石舟斎との対峙の際にも述べた通り、武蔵が本当に素直だからこそ、このような急成長が可能なんでしょうね・・・。見習いたいものです。

 

さて、これで、バガボンドの第一部「宮本武蔵編」は、完結です。14巻~20巻は「佐々木小次郎編」ということで武蔵が(殆ど)登場しませんので、次回読み解きは21巻からとなります。舞台は再び京都に戻り、ついに、吉岡道場との再戦ですよ!

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