第二十五戦:vs 柳生石舟斎 (第11巻より):誰だって昔は未熟だった|バガボンドを勝手に読み解く

AUTHOR :  田中 耕比古

先達の声から、何を得るかは己次第。

バガボンド(11)(モーニングKC)

この連載では、バガボンドの主人公 宮本武蔵の”戦闘”シーンを抜き出し、武蔵の成長について読み解いていきます。連載第25回の今回は、眠っている柳生石舟斎との戦いです。

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柳生の主、石舟斎は”自然体”を超越した存在

柳生の里に乗り込んだ武蔵。四高弟とのやりとり(宴席:第二十二戦戦闘:第二十三戦)を乗り越え、おつうとの再会を経て、本丸である”天下無双” 柳生石舟斎に辿り着きます。

柳生石舟斎は、病床に伏しています。すやすやと眠る石舟斎に刀を突き付ける武蔵ですが、刀を握る腕の筋肉が微動だにしないうちに、寝ている石舟斎の持った孫の手で剣先を押さえられます。

今のは 何だ・・・!?
偶然だ・・・・・・ 見ろ まるで無防備だ
これでは ひとたまりも

と思った刹那、再度、孫の手が武蔵の剣先に触れます。

俺の腕は 筋肉はまだ微動だにしていないはず
気ーーーー
俺の殺気にすでに反応したのか このじいさん!?

驚きつつも、気を取り直して、攻撃を仕掛けようとする武蔵。

俺がこの腕をふりおろせば
あんたの時代は終わりだ じいさん

しかし、武蔵が攻撃を仕掛けたまさにそのとき、そこにいるはずのない敵があらわれ、武蔵につかみかかります。

それは殺気に溢れた武蔵自身(の幻影)でした。驚き、戸惑う武蔵。そのとき、寝ていたはずの石舟斎が、こちらを見ているのに気づきます。石舟斎のまなざしは曇りなく透き通り、武蔵はその瞳の中に大自然を、そして宇宙を観ます。

天下無双を追い、それを得た”父”新免無二斎。それはただの言葉だと言い切る石舟斎。

そんな武蔵の前に、父の幻影があらわれます。父(の幻影)は、自分自身を「天下無双」と信じており、武蔵を「天下無双の仔」と呼びます。新免無二斎の心の拠り所は、吉岡拳法を御前試合で倒したことによって将軍から与えられた「日下無双兵法術者」という称号(が書かれた巻物)です。

武蔵は気づきます。天下無双を追うことに、何の意味があるのか、と。そして、石舟斎の姿に宝蔵院胤栄の姿を重ね、そこに「自然体」を越えた「大自然の強さ」を見出します。また、それと同時に、父、無二斎の弱さにも気づきます。

ああ この人は山だ

ああ あの人は 恐れていたのだ
無双という称号にーーー 無二斎という名にとらわれて
広い天下を 狭くした
そして 我が子すらも 恐れたのかーーー
天下は 無限に広く・・・ 包みこむ
父上 ここに 本物がいます

※この人=石舟斎 あの人=無二斎

しかしながら、武蔵は、ここまで来て引き下がるような男ではありません。理論ではなく本能によって突き動かされる男です。父の思いを受け止め、自分自身を鼓舞し、目の前で眠る石舟斎の首を取るべく刀を振り下ろします。

殺せる! 喉に突き立ててやる!
いつまで 呑気に 寝てる!?
その孫の手 一本でどう防ぐっ!!

が、なんと、石舟斎の手には孫の手はありません。

いつのまにか上方に投げられており、武蔵の頭上に落ちて当たります。その衝撃に、思わず上を見上げた武蔵は、そこにあるはずのない「晴天の青空」を見ます。石舟斎のいだく自然の雄大さに圧倒され、膝から崩れ落ちる武蔵に、寝ていたはずの石舟斎が言います。

我が剣は 天地とひとつ

石舟斎と胤栄の師である、伊勢殿の言葉ですが、まさに、武蔵が体感したことを言い表した一言です。この一言を受けて、武蔵は複雑な感情をいだきます。

押し潰されそうでーーー 逃げ出したい
そう思う武蔵があり
いつまでも ここに とどまりたい
このじいさん 好きだ
と思う武蔵があった

そんな武蔵に対して、寝ぼけている石舟斎は、(相手を武蔵ではなく、嫡孫の兵庫助だと勘違いしたまま)落ちている武蔵の脇差を拾い、戯れの一撃を繰り出そうとします。そのあまりの威圧感に武蔵は飛びのきます。そして、石舟斎の前に跪き、天下無双、柳生石舟斎の大きさは今の自分には計れない。また、再度、訪問させてほしいと懇願します。

そんな武蔵をみて、石舟斎は、ようやく孫ではないと気づきます。また、彼がおつうの幼友達であると理解します。その面構え(=実力)を評価しつつ、危うさをみてとり、助言を与えます。

天下無双とは何か・・・か
武蔵よ
天下無双とは ただの言葉じゃ

「天下無双とは」などとーーー
考えれば 考えるほど
見よう見ようと 目を凝らすほど
答えは見えなくなる

見つめても見えないならーーー
目を閉じよ

どうじゃ
お前は無限じゃろう?

この言葉を胸に抱き、武蔵は、柳生の里を後にするのでした。

とらわれるな。解放せよ。

石舟斎との出会いは、たった数分間のことだったと思われます。しかし、その濃密さはすさまじく、武蔵に大きな影響を与えます。同じ師(伊勢殿)を持つ胤栄との数ヶ月間にわたる修行があったことも一因だと思いますが、それよりなにより、武蔵の”受容度”によるところが大きいでしょう。

武蔵は、芍薬のくだりでもあったように、モノゴトの本質を、自分の眼で観て、自分自身の言葉で理解しようと取り組みます。後に(31巻です)、剣豪 伊藤一刀斎と石舟斎が会った際に、石舟斎は伊藤一刀斎の強さを「でっかい熊か何か」と同じだと評します。一刀斎のその強さは”我”を究めた姿です。これも一つの強さではありますが、武蔵には、他人から学び吸収していく姿勢があります。(こうなったのは、沢庵和尚のおかげだと言って良いでしょうね。)

武蔵は、この戦い(というか、出逢い)を通じて、父の呪縛から解き放たれます。そして、天下無双と言う言葉の呪縛からも解き放たれます。(もちろん、そんなに簡単に解脱出来たら苦労しないわけで、実際のところは「呪縛」と「解脱」を行ったり来たりするわけですが。)

誰しも”未熟な時代”を経て、達人になる

しかしながら石舟斎とて、昔から、現在のような境地に至っていたわけではありません。武蔵が柳生四高弟と戦っている頃、その気配(獣のような殺気)を感じ取った柳生石舟斎は夢うつつで呟きます。

夢か・・・
人は死ぬときに歩んできた人生を見るというが あれは本当じゃのう おつう

若い頃の・・・ 師 伊勢殿に出会う前のわしが出てきたぞ ふふ・・・

強さをはきちがえておるわ・・・

石舟斎自身も、若かりし頃は「我」に囚われ”天下無双”を目指していたんですね。

まあ、それは当たり前のことです。好むと好まざるにかかわらず、人が、同じ目的地を目指すならば(一部の例外を除いて)同じルートをたどることになるものなんです。だから、先達はあらまほしき、ということになるわけですよね。

その一方で、多くの人は言われても分かりません。「学生時代には遊んでおけ(or ちゃんと学べ)」とか、「夏休みは貴重だよ」とかいう言葉を子供や若者に言っても、まぁ、だいたいは無駄な結果に終わります。「彼らにとって”現在進行形”の物事」を、”過去の経験によって得られた知見”という概念として捉えて助言したところで響くわけがないんですよね。

コンサルタントが、若手に「ワークライフバランスは、長期スパンで考えたほうが良いかもよ(若いうちは、プライベートを捨てて仕事に打ち込む時期を作っても良いかもよ)」と言ったところで、やるかやらないかは本人次第です。いや、ほんとに。

結局のところ、受け取り手の素直さ次第(もう少し観点を変えると受容度の高さ次第)ということになります。助言者が与えられる助言は相手に依らず、同じですから、それを活かせるも活かせないも、受け手に委ねられているんですよね。

武蔵は受け取れる人間で、一刀斎は受け取れない人間です。どちらが良いとか悪いではありません。ただ、僕自身は、武蔵のように迷いながら成長していく道を進むのだろうなと思っています。一刀斎のように、己の強さだけを磨いて戦っていくことが出来る人は稀です。多くの人は、武蔵のように揺れるでしょう。ただ、そうして揺れる中にも、”一本の芯”を通せるかどうかが、武蔵のように強い人間になれるかどうかの分かれ目なのかもしれません。

武蔵にとっては、山が師であり、沢庵が師であり、胤栄が師であり、石舟斎も師です。そして、殺し合いをした、胤瞬も、吉岡清十郎も、吉岡伝七郎も、辻風黄平や辻風典馬さえも師です。もちろん、父、新免無二斎も師でしょう。多くの存在を”師”と仰げるような素直さを持った人間に、僕はなりたいなと思います。ほんとに、難しいんですけどね。

 

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