勝って兜の緒を締めよ
この連載では、バガボンドの主人公 宮本武蔵の”戦闘”シーンを抜き出し、武蔵の成長について読み解いていきます。連載第19回の今回は、前回コテンパンにやられた胤舜との再戦です。
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無我の境地
胤舜との再戦は、回想シーンなども挟みつつ、7巻の3/4と8巻の半分くらいを費やして語られます。従って、他の戦いのようにその流れを逐一追っていては、すぐに1万字くらいになっちゃいます。ということで、今回はサラリと要点をご紹介するに留めます。興味のある方は、Amazonさんでポチッとお買い求めいただければと存じます。
自らを取り戻せ
胤舜を前にした武蔵は、死への恐怖と再度向き合うことになります。平静さを失いそうになったその時、目の前にぶら下がった蜘蛛に気づき、その糸を辿るように見上げた先には満天の星空が広がっていました。天の広さに気づいた武蔵は「胤瞬もまた人なり」と、冷静さを取り戻します。
静かなる戦い
胤栄さえも驚くほどの平静さで”不細工な殺気”を己の内に収めた武蔵は、精神的に、胤舜の優位に立ちます。相当の長い時間向き合う二人ですが、考えていることは少し違います。胤舜は肉薄した精神的な戦いに楽しさを感じています。一方の武蔵は、とらわれるな、見るともなく見るのだ、ということを自らに説き続けます。満天の星空から見下ろせば、胤瞬も自分も変わらないのだと言い聞かせることで、全体を見ようとトライしていくわけです。これは、胤舜は相手を観察しながら自己と対話しているが、武蔵は己を消そうとしている、ということなんだと僕は思います。
無我の境地
武蔵は自分でも驚くほどの冷静さで胤舜と対峙します。胤舜が意外と若いとか、胤舜のまつげが長いとか、胤舜の立っているところの後ろに生えている木の葉っぱが何枚もあるとか、そんなことまで「見えて」しまうのです。そんな武蔵に、胤舜は捉えどころのない恐怖を感じます。
先手を取る
そうして向き合う中で武蔵は先手を取ります。踏み出した武蔵に対して退がる胤舜は、不慣れな山中での戦いのために木の根につまづきます。苦し紛れに放つ胤舜の一撃も、武蔵に見切られます。前回の戦いとはまるで逆の状況です。
「胤舜の命」のやりとり
武蔵は、精神的優位に立った状況で(もちろん、ぎりぎりの状況だということは認識しています)「今度は、お前の命のやりとりだ」と挑みます。胤舜は、普段とは違う自分の精神状態に戸惑いながらも「これこそ自分が望んだ戦いだ」と言い聞かせます。
勝敗を決す
俺は自由自在だ、と言いのびのびと振る舞う武蔵に、精神的に追い込まれたままの胤舜が突きを放ちます。十文字槍での渾身の一撃は、ギリギリで見切る武蔵の頬と耳を切り裂きますが、致命傷には至りません。そして、武蔵の木刀が胤舜を捉え、勝負を決します。
勝利と共に、不細工な武蔵へ
倒れ込んだ胤舜をみつめる武蔵は、先ほどまでの冷静さはどこへやら、「俺が強え」と大声で叫びながら地面に木刀を叩きつけます。胤栄の言うところの「不細工な殺気」を身にまとった「獣のような武蔵」に瞬時に戻ってしまったわけですね。しかし、見事な勝利です。
”勝利”の後が肝心
武蔵は、無事に勝利します。見事な勝利と言って良いでしょう。勝利に至るまでの心の動きについても、語り始めればいくらでも語れてしまうのですが、本稿では「勝った後」に注目したいと思います。
勝利ののち、雨に打たれた胤栄(師匠の方ですよ)が風邪をひいて寝込んでしまいます。見舞いに訪れた武蔵に胤栄はこう言います。
胤舜に一打入れたとたん 一瞬にして元の獣に戻っとったろうが(中略)
ここに初めてお前が来たときとまるで同じ 不細工な殺気じゃった あれは
武蔵は、無我の境地ともいうべき領域に辿り着き、無事、胤舜を打倒しました。しかし、その境地は一瞬のモノです。常に、その状態にいることはかないません。今回、垣間見ることが出来たこの「無我」と、普段の武蔵の「我欲」の間で、武蔵はこれからも常に揺れ動いていきます。まぁ、それが”修行”ってものですよね。
ビジネスにおいても、この「勝った瞬間」の振る舞いが、いちばん、人間の本性がでる瞬間だと思うんですね。
プロジェクトでクライアントにご満足頂いた、大きな契約が取れた、面接を通過した・内定をもらった、というような「勝った瞬間」に、気が緩みます。その瞬間に見える本性を、プロは見逃しません。それによって、それまでの高い評価を簡単に覆すようなことはしませんが、「今後の付き合い方」には影響を与えます。そういうものです。
気のゆるみって、本当に怖いです。誰かの悪口を言ってしまうとか、なんらかの不満を口にするとか、通常の自分なら絶対に言わないような発言をしてしまうんですよね。いわゆる「調子に乗る」って奴です。
もちろん、武蔵のように「生死の境を乗り越えた瞬間」に、大喜びをするのは無理もないことです。ただ、僕たちビジネスワールドの住人たちは、「勝ちの瞬間」に立っている場所が「次の戦いのための探り合いの場」であることを強く認識した方が良いです。大喜びをして、本性をさらすのは、クライアントや取引先と離れてから、なんなら会社のメンバーとも分かれて、自宅もしくは口の堅いバーテンしかいない閑散としたカウンターバーで、ひっそりと「勝利の喜び」を噛み締めるべきなんです。
勝って兜の緒を締めよ。は、良い言葉です。ただ、ビジネスにおいては、「勝っても兜を脱がない」が正解です。勝った!→その場では兜の緒を緩めない→家に帰って兜を脱いでくつろぐ→次の戦いに向けて兜をかぶり直す というサイクルが理想ですよね。(まぁ、本当の理想は、兜の緒を締めようと緩めようと、素のままで魅力的な裏表の人間になることですよね。徳を積みましょう、徳を。)
以上、最初の大きな山ともいうべき、胤舜戦の読み解きをお届けしました。次回からは、柳生の里へ突入しますよ。
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