第十二戦:vs 沢庵和尚(第4巻より):弱い部分を含めて”自分”だ|バガボンドを勝手に読み解く

AUTHOR :  田中 耕比古

忘れる、と言った瞬間に心を奪われている

この連載では、バガボンドの主人公、宮本武蔵の”戦闘”シーンを抜き出し、武蔵の成長について読み解いていきます。連載第12回の今回は、沢庵和尚とのやりとりです。

バガボンド(4)(モーニングKC)

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何かにとらわれると、体は動かない。

前回、吉岡道場に殴り込み、なんとか生還を果たした武蔵ですが、伝七郎に受けた傷は大きく、3日間寝込んでしまいます。ようやく目覚めた後、武蔵は沢庵と共に京の街を出ます。

傷から回復する間、寝込んでいる中で、武蔵は「おつう」の夢を見ます。そのことを沢庵に相談した武蔵は、沢庵にこう言われます。

今のお前なら ワシでも簡単に 斬れるわい

ワシに斬られるようなら・・・ おつうに会う前に死んじまうだろうなあ

「俺は、もう17のタケゾウじゃねぇ」「こんな棒キレでも死ぬかもしれんぜ」と粋がる武蔵ですが、沢庵の

おつうのことだがな・・・

という一言で、意識をそらした瞬間に、沢庵から脳天に一撃を喰らいます。勝負あり。「真剣なら即死」です。

客観的に世界を見よう。

沢庵は、敗北した自分を許せない武蔵に向かい、こう語ります。

見まいとすれば 心はますます とらわれる

心が何かにとらわれればーーー

剣は出ない そのとき お前は 死ぬだろう

一枚の葉に とらわれては 木は見えん

一本の樹に とらわれては 森は見えん

どこにも心を留めず 見るともなく 全体を見る

それがどうやら・・・・・・ 「見る」ということだ

この「全体を見る」というのは、とても大切なことです。人は、多くの場合「自分の見たいもの」しか見ません。自分が求めるものと”違う”ものが目の前にあらわれると、心を閉ざし、受け入れることをやめます。

しかし、自分という存在は世の中からすると「部分」に過ぎません。そんな小さな存在が、自分の立場・自分の思うものだけを選別しようとすると、本質を見失うのも当然です。それにもかかわらず、意識的に切り捨てたはずの「見まいとしたもの」に心は囚われます。自分が望みつつも手に入れられなかった(もしくは、手に入れるための努力をすることを諦めた)もののことに、心奪われるのです。

そんな不本意な状態に抗うために、諦めた自分の正当性を証明するための言い訳を探し続けることとなります。

正しい自己評価が、成長の最初の一歩

「自己分析」という言葉があります。就職活動において、多くの方はトライした経験をお持ちでしょう。自分を客観的に評価し、他人に(つまり、自分に対してあまり興味が無い人に)自分自身を正確に表現して理解させようというものです。(まぁ、就職活動の場合は、ポジショントークを多分に含むのでしょうけれども。)

自己分析をしっかりやると、己の置かれた立場や、自分の能力の状況が理解できます。これは、殆どすべての人にとって「望まない自分の姿」「理想とは程遠い自分の状況」と向き合うことを意味します。そうすると、大半の人は己と向き合うことをやめます。先ほど述べた通り、それは「見たくないもの」だからです。

つまり、自己評価が高い人は、自己を肯定し、他人からの低い評価を受け入れません。そして、仲間内でボヤきます。あいつらは分かってない。ぼくはもっと評価されて良いはずだ。と。

この考え方は、自己防衛本能と言う意味では間違っていませんし、メンタルを病むくらいならそう思って逃げるのも悪くない選択です。ただ、確実に言えるのは、このステージから逃げると、成長しない、ということです。

僕たちは、弱い自分を認められるだろうか

さて、武蔵に話を戻しましょう。

武蔵は、おつうへの気持ちを「邪念」と認識し、振り払おうとします。そんな武蔵に、沢庵は「それも含めて自分だ」と伝えます。

剣の道を志し 修羅の如く 己を追い込んでいくのも武蔵

おつうの夢ばかり見て 悶々としているのも武蔵

ワシにイタズラするのも武蔵

ぜーんぶひっくるめての お前なんだ いいんだ それで

認めてしまえ ありのままのお前を 修行はそこからだ

弱い自分。認めたくない何かを抱える自分。目指す自分とは違う自分。それらもひっくるめて、自分なんですね。

武蔵は、おつうに会いたい、おつうが好きだと認めます。そして、それを認めた上で、そこに囚われず、己の目指す「天下無双」へと歩みを進める覚悟を新たにするのです。

さて、僕たちは、弱い自分を認めることができるでしょうか。もちろん、武蔵のように突き進むのは、ほんとに難しいことなんですけどね。

 

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