自力で鍛え上げた者だけが、他人に基準を求める権利を得る
この連載では、バガボンドの主人公、宮本武蔵の”戦闘”シーンを抜き出し、武蔵の成長について読み解いていきます。連載第9回の今回は、吉岡一門の高弟のひとり、植田良平との一戦を取り上げます。
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実力者をうならせる剛腕
前回紹介した通り、5人の門弟を簡単に打倒した武蔵に対して、高弟のひとりである植田良平が相手をすることになります。植田良平は、当主である吉岡清十郎や、その弟 吉岡伝七郎にもひけをとらない、と評される腕前の持ち主です。
試合に際して、武蔵が子供の頃に父である新免無二斎に鍛えられたという話を聞き、植田は、武蔵を要注意人物と認識します。(この時点では詳細は明かされませんが、先代の道場主である吉岡拳法と新免無二斎の間に、なんらかの確執があることがほのめかされます。)
腕の一本くらい もらっておいた方がよろしいでしょう
と心の中で感じつつ、相対した武蔵の初太刀を木刀で受け止めますが、想像よりも強い一打に対して驚きを感じます。
うむっ 剛腕!
常人離れした膂力(りょりょく)にモノをいわす剛剣!! まともに受けては木刀ごと脳天を割られるな
ここから、いよいよ打ち合いか、と思った矢先に、当主の弟である吉岡伝七郎が登場して試合が止められてしまいますので、勝敗は決しません。
武蔵の「強さ」はいかほどか
この戦いでは、武蔵の強さの秘密が見えてきます。植田良平の「師はどなたか」という問いに対して、武蔵はこう答えます。
師は特になし 強いていえば 幼少の頃 父 新免無二斎にしごかれたのと ---
あとは山
山にあるものすべてが師といえなくもないです
これを聞いた門弟たちは、猿か、野人か、とあざけりますが、植田は「どの流派にも似ていない・・・ こいつの剣には型が無い」と、その答えを反芻します。
前回同様「自分の強さを知りたい」という欲求に素直な武蔵
武蔵は、初撃を受け流された後に、植田に「京で何番目に強いのか」と問います。
田舎者ですが 京に来た目的は 強い男の集まるこの京で一番強い男を倒すこと
あんたはなんとなく かなり強い部類の人のような気がする
そして、この問いを投げかけた理由を、このように語ります。
勝った時に 知っておきたいからです
天下無双に近づけたかどうかを
この問い・この考えには、驕りもなければ、不遜さもないと僕は思います。武蔵は、新免武蔵(しんめんたけぞう)の名を捨てた後に、4年間の武者修行を経て京に姿を現します。その期間の詳細について、原作内で語られることはありませんが、今回のやり取りから「山にこもって修行する期間が長かった」という風に考えることができそうです。(もちろん、各地を回って腕試しをしていたこともあるでしょうが、「山が師」という表現からは、子供の頃だけではなく、近年も山において自然を相手に学んできていたと考えるべきでしょう。)
これは、己の強さを、自分自身で磨き上げることの限界までは引き上げた、という状態だと思います。これは稀有な状態です。
「自分の強さがどれほどのモノか知りたい」というお話は、ビジネス界においても、結構耳にします。しかし、その多くは「いま、どれくらいかなー」という程度で、「ダメだったら、もうちょっと頑張ろう」というステータスでの問いだと僕は感じています。これは、正直なところ、その問いを投げかける相手に対しても失礼です。
他人をメジャー(ものさし)として使う場合には、自分自身で限界まで鍛え上げておくべきです。そして、これ以上は、自分一人では成長できない・伸びしろが無い。と感じたときに「自分はいかほどか」を外に求めるべきなのです。昨今の「とにかく効率性を重視する」という風潮は、個人の成長機会を奪っているように思うんですよね。成長とは、孤独な戦いです。自分自身で苦労して能力を磨き上げた上で、他人の力を借りる、という姿勢が、もっともっと重視されるべきなんじゃないでしょうか。
ちなみに、弊社も、業務プロセスにおいては効率性を求めますが、個々人の成長に関しては、多少の非効率があっても時間を投下して努力することを求めています。だって、プロフェッショナルって、そういうものでしょ?(関連記事:プロ論|プロってのはコダワリです)
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