京都は魔境。京都大学は魔窟。小説家は魔物。
先日、所用で京都に物見遊山に出かけたのですが、折角京都に行くんだから京都に所縁のある本を、と選んだのがこの1冊。森見登美彦氏の「新釈 走れメロス 他四篇」です。
原作とは全然違うオマージュ文学
僕はこれまで森見登美彦さんの本は一冊も読んだことが無くて、「有頂天家族」「四畳半神話大系」というアニメが存在すること及びその原作が森見某という人だというくらいの知識しかなかったのですが、いざ読んでみると軽快な書き味でサクサク読める一冊でした。
何がすごいかと言うと、走れメロスを含めた計五篇の「オマージュ作品」は、タイトルを読み、冒頭を読んだところまでは「これはオマージュ作品である」と強く認識しているのだけれど、気づくと「森見登美彦ワールド」にどっぷりハマり、原作の世界観を忘れてしまうということでしょう。しかし、それでは終わりません。さらに凄いことに、読後に訪れる感覚は、原作に共通するものがあるのです。読者は読み終わったときに、その”凄さ”を再認識することになります。
以前、本書評でご紹介した「仁義なきキリスト教史」が ”アナロジー文学” の傑作であり、「北斗の拳 イチゴ味」が ”パロディ漫画” の傑作であるのと同様に、この「新釈 走れメロス 他四篇」は、”オマージュ文学”の傑作だと僕は思います。(文体模写と言う意味では、清水義範という天才がいますけどね。)
京都は魔境。京都大学は魔窟。
本書の舞台は、京都という、よそものには理解しがたい魔境です。京都といえば、東西南北を四神(朱雀玄武青竜白虎)に囲まれた守りに優れた地勢であり、夏は暑くて冬は寒いという住みにくさで有名です。また、「先の大戦」というと第二次世界大戦ではなく応仁の乱のことだとか、「〇〇さんのところは、三代前に近江からお越しになられたんで京都の人やおまへん」と言われるとか言われないとかで、ウチは三代続いた江戸っ子でぇぃとかいう江戸のお人とは時間感覚の違いが垣間見えるエピソードに溢れたところです。
そんな魔境に、青春真っ只中の18歳くらいの若者が何年間も身を置いたら、そりゃぁ、人格形成になんらかの悪影響を及ぼして然るべきなのだろうな*と思うわけですが、とりわけ、この森見登美彦さんの母校である「京都大学」というのは、「めちゃめちゃ賢いけど変な人」の集合体なわけですから、「凡人なおもて変人となす、いわんや京大おや」くらいの感じでしょうか。(ごめんなさい、書いてみたかっただけです)
そんな京都大学で学生生活を過ごした森見登美彦さんの描く京都の学生達は、おそらく京都大学の学生なのだろうと推察します。そうすると、ここは魔窟としか言いようがないなと思うわけですね。
”魔境”京都の中枢ともいうべき、頭の良い変人の集合体である”魔窟”京都大学。凄い。凄すぎる。天才と何とかは紙一重だというけれど、紙一重の向こう側としか思えない。
小説を書くということは、ヒトならざる者の所業
そして、本書の中の「小説家志望の人」(あるいは、映画製作を志望する人)は、皆一様に壊れています。
山月記の主人公であり、他の作品にもチラホラ顔を見せる斎藤秀太郎は完全に壊れていますし、藪の中の鵜山徹も壊れてます。桜の森の満開の下の”男”も人としては破滅的です。最後の”男”は大学生活を終えて尚も壊れている(もしくは、壊れていく)のが非常に悲しいところです。(これが、もしも森見さんの自己投影だとしたら、かなりヤバい感じがしますけど)
僕は、文章を書くことは好きですし、小説を含めた文章を読むことが好きです。「読む」ということは本当に難しくて、外山滋比古さんの「読みの整理学」とかを精読すると、その深遠さにクラクラするんですけど、その感じもまた好きです。沢山読んだことで、いろいろ書けるようになったなと思います。なので、「ひょっとしたら、いつか、小説も書けるんじゃないか」なんて甘い夢をどこかに抱いていたりもしました。
が、今回、この小説を読んで「あ、こりゃ、無理だ」って思いました。
多分、コンサルティングを片手間でやりたい、って人が僕の前に来たら「ふざんけんな、こっちは全身全霊かけて四六時中考え抜いてんだよ」って思うんですよね、僕は。きっと、それと同じことなんですよね。「片手間で小説書きたい」ってのは。
よく言いますよね、書道家が15秒で書いた「書」に何十万円と言う価値がつくのは、修行に費やした30年と15秒に対する対価だからだ、というお話。それまでに、どれだけの時間(即ち、体力と精神力)をそれに投下したか、が実力を決めるんです。しかも、残酷なことに、それが必ず成功につながるとは限らないんですよ。何事も同じですね。
ということで、いつか小説を書きたいなんて言う甘くて愚かな夢を捨てて、コンサルティングに邁進していきたいなと思います。
紅葉を眺めに「そうだ、京都に行こう!」的気分の人は、本書を携えてのご旅行をお勧めします。行きの新幹線から読み始め、旅行中、京都の路地裏に巣食う魔窟の住人達に思いを馳せてみると宜しいのではないかと思いますよ。
注 *:僕は京都大学出身でもなければ、京都にある大学の出身でもないので、この記述は「きっと実態とそぐわない偏見なんだろうな」と思いつつも、その一方で僕がこれまでに知り合った京都に拠点を置く大学の卒業生、とりわけ京都大学の卒業生たちは、一筋縄ではいかないどころか二筋でも全然足りないくらいの感じですので、「とはいえ、あながち間違っていないんじゃないかな」と想像したりもしている次第です。ご容赦くださいませ。