平らなレベルで国際人としてコミュニケーションを取るということ
ドイツ作家協会会長をつとめたこともあるエルヴィン・ヴィッケルトは1915年にドイツで生まれた歴史小説家です。彼は第二次世界大戦前中国、日本の各地で訪ね歩き、極東の専門家として終戦まで6年間駐日ドイツ大使館で外交官として勤務しました。彼の書いた「戦時下のドイツ大使館」(中央公論社刊)は、大戦中同盟を結んだドイツと日本が双方ある意味騙しあいながら、しかし結局一蓮托生の道を進んで行く有様を描いており、なかなか興味深い本なのですが、本の最後に終戦後しばらくしてドイツ本国に送還されてからのエピソードが書かれています。
ヴィッケルトは1947年になって日本から送還され、ドイツへの送還者が皆送られるルートヴィヒスブルグにある収容所に入ります。ルートヴィヒスブルグ収容所の所長はマードック大尉というアメリカ軍人なのですが、彼の部下のグリーンバウム中尉は闇商売に現を抜かしています。ところが1947年ともなると、終戦後2年を経過しドイツ人の送還者の大きな団体はヴィッケルトのグループがほとんど最後になっていました。そのため、収容所長の生活を満喫し、収容所の閉鎖を恐れるマードック大尉はヴィッケルトの出所許可をなかなか出そうとしません。
業を煮やした、ヴィッケルトは一計を案じ、当時アメリカ大統領選挙の候補者にも取りざたされていた有力政治家のタフト上院議員の知り合いであることを装います。ヴィッケルトがタフト議員に不当抑留の抗議をするつもりだと言うと、マードック大尉は慌てて出所許可を出します。ヴィッケルトはニューズウィークやタイムを毎週読んでタフト議員の履歴から家族構成まで熟知していたのです。
首尾よく出所できたのですが、出所許可証の最終目的地は行きたかったハイデルベルグではなく、昔住んでいたベルリンになっていて、ハイデルベルグに住むことはできないことがわかります。そこで、ヴィッケルトは再び収容所に戻るのですが、マードック大尉はどうやってかヴィッケルトの嘘を見破ってかんかんになっています。もちろん、ハイデルベルグへの移住許可どころか再度抑留しかねない勢いです。そこでヴィッケルトは今度はライカのカメラを譲っても良いと、ほのめかします。カメラにつられてマードック大尉はハイデルベルグ移住の出所許可を出すのですが、当のカメラはとっくの昔に東京で盗まれていたのです。ヴィッケルトは平然と二度もアメリカ軍大尉の収容所長を騙してしまうのですが、もちろんこれはそんなには誉められた話ではありません。しかし、1947年という同時期に一般の日本人がどのようにアメリカ軍人に対応していたかを考えると、二つの敗戦国の差を思わざるを得ません。
白洲次郎は占領下の日本で吉田茂の側近として占領軍との交渉を数多く行い、アメリカ側から「従順ならざる唯一の日本人」と言われたことで知られています。白洲は神戸一中を卒業後イギリスに渡り10年を過ごし、ケンブリッジ大学を卒業しています。彼の数あるエピソードの中で、ホイットニー准将に英語を誉められて「あなたももう少し勉強すればうまくなる」と言ったのは有名です。真偽の点はともかく、流暢なイギリス英語、180センチ近い当時の日本人としては異例の長身でアメリカ軍人に何も臆するところがなかったのは確かなのでしょう。
白洲は政界にいたころは黒子役で、脚光を浴びたのはむしろ死後のことです。白洲は占領軍に屈しなかった日本人としてテレビドラマ化もされました。もっとも、彼は必ずしも傲慢や単なるへそ曲がりでアメリカに盾を突くことを喜びにするような人物ではなかったようです。白洲は晩年軽井沢のゴルフクラブの重鎮として過ごすのですが、そのとき田中角栄総理の秘書がプレーを日曜にしたいと頼んだのを断っています。これは日曜にはメンバー以外のプレーは認められていなかったからで、巷間言われているように、田中のことを馬鹿にしていたわけではなかったと思われます。
つまり白洲の占領軍に対する態度は、イギリス教育をかさにきて虚勢を張って突っ張り通したというより、合理的な主張を合理的に行ったということでしょう。サンフランシスコ講和条約締結の時に吉田全権代表が演説を日本語でするように白洲が勧めたのも「日本人だから堂々と日本語で演説すべきです」と言ったのではなく、「吉田さんの英語は下手くそで聞いている人わからないから」と思って日本語にさせたというのが本当のようです。
ヴィッケルトは極東での遍歴、大使館員として権謀術数を経験していて、蒼顔の文学青年ではなかったでしょうが、歴史小説家になるくらいですから、普通の教養人です。要するにドイツ人で一定上の教育がある人たちは、英語力も十分ですし、気分的にアメリカ人に何も遠慮することがなかったということなのでしょう。ドイツには多分、アメリカ人に平気で物を言うということだけ取り上げれば、白洲次郎のような人が山のようにいたのでしょう。「従順ならざる無数のドイツ人」がいたのです。
さて、ヴィッケルトの話も、白洲次郎の話も終戦直後のことです。ドイツも日本もアメリカの占領下にあるわけではありません。しかし、両国には依然として大規模なアメリカ軍が駐留しています。核の傘はヨーロッパでは、もはやそれほど大きな意味はないかもしれませんが、ドイツもフランスやイギリスではなくアメリカの核の力に最終的なレベルでは依存しています。では両国とアメリカの関係はどうなのでしょうか。日本では、一番基本的な部分で対等のコミュニケーションが行われていると言えるのでしょうか。
白洲もヴィッケルトも劣等感と優越感という上下関係でアメリカと付き合うことはありませんでした。今では日本にも大量の留学経験者、帰国子女がいて、英語を自由に話せる人の数という点では終戦直後の日本とは比較にならないでしょう。また、「アメリカに物申す」官僚、ビジネスマンも沢山いるでしょう。しかし、白洲次郎やヴィッケルトのように平らなレベルで国際人としてコミュニケーションを行える人は、それほど多くないのではないでしょうか。対米追随と反米、あるいは嫌中と媚中の振り子の振れを見て、気になるところです。
ところで、私は白洲次郎という人間にそれほど好感を持ってはいません。少なくとも、高貴な魂を持った真の日本人といった評価(ま、これなどは定義不能の言葉の羅列でどうとでも取れるわけですが)は疑問に感じます。それは白洲には戦争中徴兵忌避をしたという事実があるからです。私は徴兵忌避が極悪非道のこととは思ってはいませんし、かなりの日本人ができることなら徴兵されたくないという望む中で、たまたま白洲にはその力があっただけなのだとは思います。しかし、白洲のバックボーンとなった英国の貴族階級がモットーとする高貴なる義務、ノブレスオブリージュとは端的に言えば、戦争になれば真っ先に先頭を切って的に突撃する、つまり戦死を恐れず戦うことに他なりません。日頃は血筋だけを理由に豊かな生活をし、威張り散らしているわけですから、戦争では犠牲になるということがノブレスオブリージュの本質です。
白洲が徴兵忌避をしたということは、日本国民としてはノブレスオブリージュを果たそうとは全くしていなかったということになります。むしろ、白洲は嫌なことはしたくないという、わがまま坊主が大きくなったような人間と考えた方が適切です。白洲は「日本にはノブレスオブリージュがない」と言ったとも伝えられていますが、本当ならずい分と図々しい話です。ただ、逸話の多い白洲ですがマッカーサーを怒鳴りつけたなどという話は眉唾のようです。白洲の残した言葉として本人が言ったことが間違いないのは、Tシャツのロゴにもなっている彼の直筆の「Play Fast」くらいかもしれません。ゴルフを愛した彼はいつも「速くプレーしろ」と口うるさかったと伝えられています。ゴルフでぐずぐずしないのは、戦争で戦うよりは多分簡単なことなのでしょう。
(本記事は「ビジネスのための雑学知ったかぶり」を加筆、修正したものです。)
馬場 正博 (ばば まさひろ)
経営コンサルティング会社 代表取締役、医療法人ジェネラルマネージャー。某大手外資メーカーでシステム信頼性設計や、製品技術戦略の策定、未来予測などを行った後、IT開発会社でITおよびビジネスコンサルティングを行い、独立。