裏表がなくなる性質を生かしたアイデア発想は可能か?
長い長方形の形をしたテープの両端を貼り合わせると輪になりますが、その時テープを半回転、180度分ねじって表側と裏側を貼り付ける、輪は表と裏がなくなってしまいます。これは、18世紀に発見したドイツの数学者の名前を取って、メビウスの輪と呼ばれています。
メビウスの輪はとても奇妙な、直感に反する性質を持っています。メビウスの輪を真ん中でテープに沿って切って一回りしても、輪は二つに別れずに大きな一つの輪になります。しかし、新しくできた大きな輪はメビウスの輪ではありません。新しい輪はメビウスの輪が180度つまり半回転して貼り合わされているのに、2回転分、720度回転して貼り合わされたものになっています。
新しい輪は2回転ねじられているわけですから、ちゃんと裏と表があります。はさみで真ん中を切ることで、裏と表が生まれたことになります。帯の3分の1の所にはさみを入れて、ちょうど2周分切っていくと、720度ひねられた大きな輪と、それに鎖のように連結された小さなメビウスの輪ができます。
こんな奇妙な性質を持つメビウスの輪ですが、表と裏が貼り合わせることで裏表がなくなる性質を生かした応用分野もあります。例えばプリンターのインクリボンをメビウスの輪にすると、普通の輪が片方の面ばかり使うのに比べ、両側分の2倍の面積を使うことができます。同じ原理でベルトコンベアの摩耗を半分に減らすやり方もあります。この他、メビウスの輪の形をした分子構造や結晶構造を持つ物質も作られています。
不思議で面白いメビウスの輪ですが、今メビウスの輪を透明なテープで作ってみます。そして、同じ透明な小さな切れ端を作って何か図形を描き、透明なメビウスの輪に沿って滑らせます。切れ端がちょうど出発した場所の反対側に来ると、出発した側の面から見ると図形が元と対称の形、鏡に映ったように見えます。
これは3次元の世界(つまり私たちの現実の世界)で行われた実験ですが、2次元の世界の住民がいれば、メビウスの輪にある図形は2次元の世界の人には物質そのものになります。その図形(2次元にある物質)がメビウスの輪を半周すると鏡対称に変換されて元の場所に戻ることになります。
「違うよ。メビウスの輪を半周しても元の場所ではなく、反対側に到着するだけだよ」と言いたくなるかもしれませんが、そうではありません。2次元の住民にはメビウスの輪の裏とか表とかは意味がないので、メビウスの輪を半周すれば元の場所に戻るしかありません。
メビウスの輪に裏と表があるというのは、3次元の世界に住む私たちしか判りません。では3次元の空間の表と裏を貼り合わせるようなことはできるでしょうか。もちろん、3次元空間に住むわれわれには、そんなことはできません。しかし、数学者は3次元の中でメビウスの輪に相当する形を考えていて、それをクラインの壺と呼んでいます。3次元しか知覚できないわれわれにはクラインの壺を見ることはできません。それは2次元空間の住民がメビウスの輪が半回転ひねられて作られたものだということ知覚できないのと同じです。
話を2次元空間に戻して、平らで大きな広がりを持つ空間に2次元住民が住んでいると考えましょう。その平らな空間の一か所にメビウスの輪を貼り付けます。そして何かの拍子で2次元空間の物質がメビウスの輪に紛れ込んでしまったとします。その物質がメビウスの輪を半回転して元の世界に戻ると物質は元の形ではなく鏡対称の形に返還されてしまっています。
同じことを3次元の世界で、いたずら好きの4次元の住民がクラインの壺を私たちの3次元空間に貼り付けられたとしましょう。誰かが張り合わされたクラインの壺に取り込まれると、私たちの住む3次元空間からは消えてしまいます。まさに「神隠し」です。神隠しに会った不幸なその人がクラインの壺を半周して戻ってくると、体は元の鏡対称になっているはずです。つまり、右利きの人は左利きになり、心臓は右側、肝臓は左側についていることになります。
この世界は概ね対称にできているので、鏡対称になってしまった人もそのうち慣れるかもしれません。しかし、鏡対称は心臓の場所だけではなく、分子構造にまでおよびます。有機物には対称ではない分子構造のものもありますが、世の中に存在する私たちの食べ物は私たちに都合の良い構造になっています。つまり、鏡対称の人には摂取できない食べ物だらけということになってしまいます。気の毒な鏡対称人間は栄養失調になり長く生きることはできないでしょう。助かる方法は再びクラインの壺に取り込まれて、鏡対称の鏡対称つまり元に戻るしかありません。
私たちの宇宙全体が巨大なクラインの壺だったらどうなるでしょうか。宇宙の彼方に向かって旅立った宇宙ロケットが、長い時間を経て戻ってきた時、ロケットから降りてくるのは心臓が右側についた宇宙飛行士です。せっかく戻ってきても食べるものもないので、再び宇宙を目指し再度帰還するしかありません。そうでなければ、小さなクラインの壺を3次元空間に貼り付けて、そこで元の形を取り戻すことが必要です。
私たちの世界は3次元だと思われていますが、超ひも理論では、実は世界は9次元とか11次元になっていて、余分な次元は畳み込まれていることになっています。もし、この畳み込まれた次元をうまく利用してクラインの壺を私たちの住む世界の空間に接続して作ることができれば、鏡対称製造機械を作ることができます。これは、はさみやゴルフクラブが右利き用ばかりで不便を感じている左利きの人々には朗報でしょう。分子構造が鏡対称になった食物を摂取するのが有毒かどうかわかりませんが、もし問題なければ、いくら食べても太らないダイエット食品製造装置になるかもしれません。
改めてメビウスの輪を見ると、テープを半回転ねじって裏と表を貼り合わせるだけで、どうしてこんなに奇妙なことが起きるのか改めて不思議になります。空間のねじれとか歪みというのはSFではよく出てくる言葉ですが、それを簡単な実験で目の当りみせてくれるという点で、メビウスの輪は一つの大きな発見と言えるでしょう。アイデアや解決策がこんな風に魔法のように作れるたらどんなに素晴らしいだろうとつい思ってしまうのは、きっと私だけではないでしょう。
(本記事は「ビジネスのための雑学知ったかぶり」を加筆、修正したものです。)
馬場 正博 (ばば まさひろ)
経営コンサルティング会社 代表取締役、医療法人ジェネラルマネージャー。某大手外資メーカーでシステム信頼性設計や、製品技術戦略の策定、未来予測などを行った後、IT開発会社でITおよびビジネスコンサルティングを行い、独立。