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ギックスの本棚/依存症ビジネス~「廃人」製造社会の真実~ The Fix(デイミアン・トンプソン|ダイヤモンド社)

AUTHOR :  田中 耕比古

「美学」無き生き方は褒められたもんじゃない。

依存症ビジネス――「廃人」製造社会の真実

本日は、ダイヤモンド社の「依存症ビジネス」を取り上げます。

依存症を「ビジネス」にするとは?

本書は、依存症について語ります。そういう意味では、以前、こちらの記事で触れた「禁酒セラピー」などと近い方向性の本です。

しかし、タイトルにもある通り、本書はそのビジネス性に対して焦点を当てます。尚、原題である「The Fix」についての説明箇所を引用します。

21世紀初頭の社会に生じたもっとも影響力のあるトレンドとは、気分を向上させたいときはいつでも、自分に報酬、すなわち「ごほうび」を与えるという習慣がますます強まったことだ。(中略)

問題は、もはや身体的にも必要としておらず、種としての存続にも何の意味もないような報酬に満ちた環境を、私たちが築いてしまったことにある。(中略)

言い換えれば、私たちは「すぐに気分をよくしてくれるもの=フィックス」に手を出してしまうのだ。

「フィックス」という言葉を聞くと、哀れな依存者の姿が目に浮かぶ。薬物依存者が薬物を「フィックス」と呼ぶ理由は、お気に入りの薬物を摂取すれば、一時的に「修理(フィックス)」されたような気分になるからだ。

この「フィックス」に相当する、砂糖、iPhone、ゲーム、SNS、アルコール、ドラッグ、ポルノなどに対する依存症を、従来の「依存症は病気」という説に対して、依存症を喚起する「商売」の視点で語っていくのが本書の内容となります。

アップルの場合

例えば、アップルの新商品を「買わなくてはならない」という不安も、依存の一つだと本書では説かれます。 そして、それは高揚感を煽る新商品発表会や、実際に魅力的な商品群のみならず、「アップルストア」あるいは「ジーニアスバー」での対応によって増長されます。

ユーザーの一端には、バリバリのアップル信者がいて、まるで狂信的な態度をとるんですが、会社はそれを思いとどまらせようとはしません。というよりもむしろ奨励しているんです。(中略)ジーニアスバーに、何年も前のアップル製品を持ってきて見せびらかすんです。そんなときには、見たことがないふりをしなければなりません。おだててあげなきゃなりませんからね。

また、この傾向はアップル信者に限りません。

ノーマルな人たちでも、製品に不具合が生じると、度を越して怒りまくったりするんです。それに、自分の持っている製品が最新版ではない、だから後れを取っている、と思って不安になる理由もそこにあります。(中略)ぼくは、信用調査ではねられたために、最新の製品が買えなくて泣き出す人たちの姿も目にしました。

この状況は、一般的にいうと「マーケティングとして成功している」わけですし、「理念に基づいて、理想的なビジネス生態系(エコシステム)を築いている」と言えるのですが、本書の表現で読むと、確かに行き過ぎているのかもしれないな・・・、と思わざるを得ません。

アプリ内課金の場合

アプリ内課金も、精緻にデザインされており、「自然と」買うようにできていると本書は説きます。また、それは「報酬系」に限らず、「フラストレーション」を生じさせることによって助長される、とも。

そして、その巧妙な仕組みは、悲惨な結末につながるケースもある、と。

たとえば、アングリーバードは病みつきになるが、家庭を破壊してしまうようなゲームではない。単に時間を浪費させるだけだ。

人々の生活を奪ってしまうのは、どっぷり浸かれる空想世界が広がる大規模なゲーム。その理由の1つは、ゲームボーイの成功を導いた有名なテトリスと同じように、永久に勝つことができないからだ。(中略)ワールド オブ ウォークラフトのようなゲームには終わりがない。

言いかえれば、いったんゲームに引き込まれたら、リアル世界からのきっかけ —たとえば、結婚生活の破綻とか、郵便受けに届いた解雇通知とか—がない限り、二度と抜けだせなくなるんだ。

僕も、つい最近、遅まきながらIngressを始めたのですが、怖いですね。夜に帰宅してから、めちゃめちゃ散歩してます。なんなら、クライアント先から自社オフィスまでの2kmほどを歩いて移動してしまったりします。地下鉄に乗るよりは、バスやJRなどの地上移動を好むようになりました。つまり、生活スタイルが変わってしまっているのです。

客観的に自分をみつめるように心がけているので、現状は、深夜に衝動的に近所のポータルを徘徊するようなことにはなっていませんが、LV8に到達し(今はLV6です)、ゲームの楽しみ方が今と変わってしまった場合には、どうなってしまうのか・・・

無料だから、とか、健康に良いから、とか、普段と違うルートを通ったりして新しい発見があるから、とかいう言い訳は常にありますが、正直「危険なにおい」を感じています。(そもそも、Google先生に、行動ログをすべて押さえられている、ということが最大の恐怖だったりもしますが(笑))⇒関連記事:Ingress(イングレス)の「次の一手」は?|Googleの戦略を勝手に予想

 

このほかにも、砂糖たっぷりのドーナツや、ショッピングモールゾンビなど、いろんな事例が語られます。まぁ、アメリカの話なので、我々日本人にはちょっと理解しがたいものも散見されますが、それでも、事例が非常に多種多様なので、きっと、何かしら「琴線に触れる」ものがあると思います。

尚、ギックスの本棚/火の鳥を読み解く シリーズの「火の鳥 望郷編」でも、ネズミのような姿形をしたズバーダンのマーケティング手法に関連して「依存ビジネス」を語っていますので、そちらもご覧いただければ幸いです。⇒ 関連記事:ギックスの本棚/火の鳥(8)望郷編

大切なのは美学

本書を読んで、僕が強く感じるのは、「美学の問題」です。

これは、ビジネスを行う側にとっても重要なことであり、そしてモノ・サービスを買う側にとってもそうでしょう。

ビジネス提供側の「美学」

アップルのビジネスモデルや、ソーシャルゲームのモデルを「悪い」と断じることはできません。また、砂糖たっぷりのドーナツを売るのも、ジャンクフードを売ることも、必ずしも「悪」ではないのです。(もちろん、ドラッグや、行き過ぎたポルノは「法規制」の観点から「悪」と断じられますので、ここでの議論の対象からは除きます。本書の中では「境界線はあいまいだ」という論調ですが、僕は、「法律」という線は重要だと思います。)

法律というラインの内側で行われているビジネスは「悪い」と言い切ることは難しいです。では、どう評価すべきか。僕は「美学がない」あるいは「品がない」ということになると思うのです。

お金を儲ける、という視点を最重要視するならば、いろんなことができます。もちろん、単に思いついたからといって実現できるわけではないので、ビジネス的に大成功している人は素直に凄いなと思います。しかし、その選択肢に「美学があるか」「品があるか」というと、話は少し違います。

ネットワークビジネス、というものがあります。いろんな意見はあると思いますが、ざっくり言うとネズミ講です。僕は人生において、5回ほど接点がありますが、都度「僕は、やらない」という結論に至っています。最初の頃は「君たちの否定する一般社会の”年功序列の階層社会”、という構図は、君たちの組織における”上納金モデル”によってより強化されてるけど論理矛盾起こしてない?」とか「君の言う不労所得は、今、声をかけている僕によって実現しようとしてるんだよね?その時点で”頑張ったやつが儲かる”の”頑張る”の意味が、さっき言ってた良い商品をおすすめしたいって理念とズレてるけどそこんとこ理解してる?」というような反論を試みていたわけですが、あるとき、ふと気づきました。

「ああ、単に、僕の美学にそぐわないんだ」と。

不労所得がほしいか、と問われればイエスです。しかし、そのために、友人関係を金に変えるようなものは「美学に反する」な、と。金がすべてに最優先するような人生はクソですし、そんなことをしないと”生き甲斐”や”やり甲斐”が見いだせないような人生も僕の理想とは程遠いです。

少し話がずれましたが、そういう意味で「自分がやるべきビジネスがかどうか」を「美学」の視点で判断することが非常に重要だと思うのです。

モノ・サービスを買う側の「美学」

一方、モノ・サービスを買う側にとっても同じようなことが言えます。

皆さんには、「無料だから使っている」というサービスはありませんか?

例えば、wikipediaとか。でも、役に立っているのなら、ちゃんと寄付しましょう。あるいは、神戸ルミナリエ。阪神大震災からの神戸復興のシンボルであり、慰霊・鎮魂の儀式です。赤字運営が続いていると聞いています。仮に復興支援に興味がなくても、楽しんだなら寄付しましょう。

何らかのサービス・便益に対して、対価を払う、ということは当たり前のことです。

この視点に立つということは、常に自省の視点を持つことになります。つまり「お金を払う価値のないものを使っていないか」です。

現在、有償であるか無償であるかに関わらず、「そのサービスに、対価を払う価値を感じているのか」が重要です。ソーシャルゲームの課金、見ていないケーブルテレビ、使っていない固定電話、部屋に積まれた古い雑誌、めったに使われないクーポン券、特に意味もなく惰性で飲んでいる冷蔵庫のビール。

別に断捨離をおすすめしているわけではないのですが、自分自身の「美学」に照らし合わせて、必要なものと不要なものを峻別することが重要だと思うのです。

この「美学」に基づいて行動するということができれば、それは、おそらく「依存」との決別を意味するのだと思うのです。

 

最後に、本書の締めの一説を引用します。

もしかしたら私たちは、狩猟採集民だった祖先の身をかつて守っていた警戒感を取り戻すことが必要なのかもしれない。私たちの「欲しい」という衝動を操作しようとするテクノロジーのトリックが早く見抜ければ見抜けるほど、それらを拒絶できる可能性も高くなる。

とは言っても、もちろん、私たちがそう欲すれば、の話だが。

本書を読み、何を感じるかは人それぞれでしょう。しかし、自らが関わる仕事についても、あるいは自分の生き方についても、現状に鑑みて「よりよい人生」について考える契機となるように思います。お心当たりのある方は、ぜひ、ご一読を。

依存症ビジネス――「廃人」製造社会の真実
依存症ビジネス――「廃人」製造社会の真実

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