clock2014.11.13 09:00
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もし誰も嘘をつけなかったら|馬場正博の「ご隠居の視点」【寄稿】

AUTHOR :   ギックス

「レモン市場:品質の不確実性と市場のメカニズム」を日常生活から考察する

人は嘘をつきます。インチキな商品を売るため、浮気を隠すため、罪を逃れるため、理由は様々ですが、「嘘は悪いこと」という共通理解があるのに、多くの人は実に頻繁に嘘をつきます。この社会の仕組みは人は嘘をつくことがあるという前提ででき上がっています。しかし、もし誰も嘘をつかなかったらどうなるでしょうか。それはバラ色の社会なのでしょうか。

客と中古車屋

客「このBMW Z4はいくらですか」
中古車屋「290万円です」
客「いくらまでなら下げられますか」
中古車屋「一応250万円までは値下げしても良いと思っています」
客「外見はきれいだけど悪いところもあるんでしょ」
中古車屋「はい、バッテリーは2-3カ月で交換する必要があると思います。エアコンもコンプレッサーの具合が悪いので夏を越すのは難しいかもしれません」
客「交換するといくらくらいかかりますか」
中古車屋「純正部品だと修理費込みで40万円くらいかかるかもしれません」
客「他に問題は何かありませんか」
中古車屋「追突されてフレームを溶接で直しています。素人にはきれいに修理してあるので、わかりにくいですが、トランクをあけてマットを剥がすとよくわかります」
客「走行性能に影響があるでしょう」
中古車屋「はい、でも160キロ以上で若干問題がある程度ではないかと思います。それほどひどい事故ではなかったようなので」
客「修理費を考えると250万円でも少し高いかもしれない。仕入れはいくらでしたか」
中古車屋「150万円です」
客「250万円でも100万円も儲かりますね。200万円くらいでもいいでしょう」
中古車屋「色々経費もかかるので、50万円の粗利では結構苦しいですね。でもお客様はこの車を気に入っているのでしょう」
客「色も黒で欲しかった色だし、走行距離も2万キロで全体の程度はとてもいい。欲しくて今ここから乗っていきたいくらいです」
中古車屋「他の店はごらんになりましたか」
客「もちろん、でも250万円でここまで程度の良いものはありませんでした。色も黒は見つからなかったし」
中古車屋「さっき来たお客様は230万円だったら買えるのにとおっしゃって帰って行きました。200万円まで下げなくても売れるんです」
客「私は即金で払いますよ。今月の資金繰りを考えたら今ここで決めた方がよくはありませんか」
中古車屋「ええ、家賃とか支払いが来週いくつかあるので、確実に売り上げを確保したいと思っています」
客「それなら220万円ならどうですか」
中古車屋「わかりました220万円で結構です。でも、バッテリーの交換とコンプレッサーの修理は自分でお願いしますね」
客「もともと300万円くらいは出さなきゃいけないと思っていたので、それは構いません。スピードはあまり出す方じゃないから、事故履歴は気になりません。どうもありがとう」
中古車屋「こちらこそ、ありがとうございます」

レモン市場

1970年、アメリカの経済学者のジョージ・A・アカロフは中古車市場をモデルにして、買い手と売り手の持つ情報量が違う時、つまり情報の非対称があるとき、市場が十分に機能しないという論文「レモン市場:品質の不確実性と市場のメカニズム」を発表しました。

中古車市場では欠陥のある中古車(米俗語でレモンという)かどうかというのは売り手は知っていても、買い手にはなかなか判りません。そのため買い手は優良な車(米俗語でチェリーという)の価値の通りの価格を支払うのではなく、レモン車本来の値段との中間の値段しか払おうとしなくなります。その結果、チェリー車の持ち主は中古市場に売りに出すのを止めてしまうので、市場にはレモン車ばかりが出回ることになります。

これは市場が十分に社会的効用を果たしていないということを意味します。アカロフは情報の非対称性を伴う市場の分析の研究で2001年のノーベル経済学賞を受賞しています。中古車市場に見られたことは、出会い系サイトや強制加入を前提としない医療保険などにも起こります。アメリカは国民皆保険の医療保険制度を持っていないため、医療保険全体がレモン市場になる危険性があり、保険会社はレモンを受入れまいとして膨大なコストをかけるという問題を抱えています。

一方アカロフへの反論として、買い手側もそれなりに情報獲得の手段がある、あるいは中古車屋も評判が大切なのでいつも欠陥を隠してばかりはいないというものがあります。インターネットの普及で買い手側の情報は格段に増えて、その結果商品価格がより妥当なもの(大概は安く)なってきたのは事実でしょう。

また、売り手側も長い間商売をしたければ、客から絞りとろうとばかり考えるとは限らないということもあるでしょう。しかし、素人の買い手にはなかなか隠された欠陥は判らない中古車のような商品では、素知らぬ顔で高い値段で売ろうという業者がいなくなることはありません。根本的には人間は嘘をつく、あるいは嘘をつかないまでも本当のことを言わないのは日常生活では当たり前で、そうである限りレモン市場は存在してしまうのです。

それでは冒頭の会話のような100%正直者の中古車屋と買い手の取引ではどうなるのでしょうか。どちらも100%正直な場合でも、中古車屋が一方的に譲歩を強いられるということはありません。買い手も「欲しい気持ち」「この価格で満足」という気持ちを見抜かれてしまうからです。このような状態は品質の標準化された原油や小麦のようなコモディティー商品のオープンな市場では成立しています。

そんな原油や小麦の市場でも突然意味もなく価格が暴騰したり暴落したりすることはあります。またオープンな市場でなく冒頭の例のように100%正直者同士の取引でも交渉は必要です。お互い手の内を全て見せても案外世の中は変わらないのかもしれません。

夫と妻

妻「あなた今のメールは誰から」
夫「会社の部下のAさんからだ」
妻「あなたの不倫の相手?」
夫「そうだ。よくわかったね」
妻「あなたは表情に出やすいから。いつから関係が続いているの」
夫「まだ半年くらいだよ。それより君も不倫しているだろう」
妻「スポーツジムのインストラクターとだけど、相手から見ると私なんて数のうちにもはいっていないみたい」
夫「離婚したいの?」
妻「あなたには生命保険が沢山かかっているし、生活のことを考えると離婚はありえないわ。あなたは?」
夫「僕もだよ。浮気は浮気で家庭は家庭だ。今さら何もかもやり直す気にはならないね」
妻「だったら今日は外で何かおいしいものを食べない。あなたに料理を作るのはうんざりしていたの」
夫「僕も君のまずい料理にはあきあきしていたンだ。Aさんとこのあいだ行ったイタリアンが悪くなかったから、そこでどうだい」
妻「素敵。あなたと私って気が合うわね」
夫「本当にそうだね」

男と女の騙し合い

普通の夫婦は男性も女性も浮気は隠そうとします。これは人種や時代を超えて成立しますから、人類の形質の一つと考えて良いでしょう。ではなぜ、男と女はお互いに嘘をつくのでしょうか。進化生物学的に言って、嘘をつくことが生存競争上何か有利に働くことがあるのでしょうか。

人類の女性は他の哺乳類たとえばチンパンジーなどと比べると未熟児しか生むことができません。これは人類が大きな脳を持つことの代償で大きな脳を持つ赤ん坊は産道を通過することができないからです(人間の赤ん坊が成人の25%の脳で生まれるのに、チンパンジーの新生児は65%の脳を持っています)。このため人類は子育てに長い時間を費やす必要があります。

子育ての期間中女性は男性の助けが必要です。しかし男性は自分の遺伝子の継承者つまり本当の自分の子供の育児しか協力しようとは考えません。そこで女性は浮気で夫以外の男性との間に子供ができたことをできるだけ隠そうとします。女性には嘘をつく動機、インセンティブがあります。

男性はどうでしょう。人類社会にはイスラム教徒のように4人まで妻を持てるとか、ハーレムを作るような文化もあるわけですから、正々堂々と浮気をしてもよさそうに思えます。現にそうしている人もいるかもしれません。しかし、人類の歴史を考えるとハーレムのように一人の男性が沢山の女性を養う状況はごく新しい話だと考えられます。

人類は概ね一夫一婦制を守ってきたのですが、生産力の乏しい原始時代には一人の男性は一人の女性を養うのが精一杯だったと考えられます。ゴリラやアザラシのようなハーレムを作る種は人類のように子育てに莫大な労力を必要とはしません。子育ての期間はメスにとっても繁殖期間から次の繁殖期間までです。

ところが人類は女性が出産して次に妊娠可能になるまでの4年(農耕が始まるまでこれが女性の平均的な出産の間隔でした)では子供まだ一人立ちできません。もっと長い期間10年あるいはそれ以上夫婦は共同して子育てにコミットする必要があります。複数の女性を養えるような男性が登場するのは農耕によって富の蓄積が可能になって貧富の差が生まれてからではないかと思われます。

人間は他の霊長類と比べても例外的に年中セックスが可能です。一つ考えられる理由はセックスが子育てにコミットする男性に対する女性の報酬ではないかということです。そうであれば報酬を受け取っていながら浮気をするのは男性が女性に対して契約違反をしていることになります。

浮気は人類以外の一夫一婦制を基本にする鳥や哺乳類のツガイにも見られます。そのような浮気の結果生まれた子供の子育ての責任は通常のツガイが行うのが普通です。つまり、メスはオスを自分の子だと騙しているわけです。人類以外であればオスは浮気をしてもメスにばれる気づかいもありませんし、騙す必要もありません。オスがメスに嘘をつく必要があるのは人類だけのようです。メスの嘘は人類の生まれる前からの長い歴史があるのに、オスの嘘はまだ歴史が浅いのだとすると、嘘は女性の方が男性よりうまいのは進化論的な必然なのかもしれません。

刑事と殺し屋

刑事「で、この殺人事件の犯人は君だね」
殺し屋「はい、その通りです」
刑事「計画的な犯行だよね」
殺し屋「もちろんです。プロは失敗が許されませんから、何カ月も前から標的の行動パターンを調べて念入りに準備を重ねました」
刑事「凶器はどうしたンだ」
殺し屋「トカレフの犯罪歴のないものを売人から仕入れました。拳銃は1回使ったら必ず廃棄しますし、犯罪歴のないトカレフは結構値段もするので大変です」
刑事「使ったトカレフはどこにある」
殺し屋「ですから、使用済みのトカレフは東京湾に遊覧船から捨てました。探そうと思っても無理だと思います」
刑事「悪い奴だな」
殺し屋「殺し屋ですから」
刑事「誰に雇われたンだ」
殺し屋「本当の雇い主はわからないことになっているンです。私に直接依頼したのはA組の若頭のLですが、Lに頼んだもっと大物がいると思います。私は仕事が確実な分高いので、A組のような小さなところでは払えないと思います。とにかく本当の雇い主は聞いていませんから、Lに聞くしかありませんね」
刑事「わかったLに聞いて教えてもらおう。君はプロというからにはもっと沢山殺しているんだろう」
殺し屋「全部で15人です。殺人は私の主要な収入源です」
刑事「なるほど」
殺し屋「私はやはり死刑になるでしょうか」
刑事「殺した数から言えばそうだが、今回の事件も含め全て自白しか証拠がないので、有罪に持ち込むのは大変だ。それもそうだが反省はしていないのか」
殺し屋「仕事ですから」
刑事「反省していないと、有罪の場合は死刑の可能性がまた高くなるね」
殺し屋「それは残念です。ただ私は依頼さえなければ、自分から人を殺すような無駄なことはしません。実直で真面目な職業人です」
刑事「自白以外の証拠が何か欲しいな。考えてみてよ」
殺し屋「うーん。そうだ私のパソコンに殺した相手の行動パターンと、殺害方法のシナリオを描いたファイルがあります。それならどうでしょう」
刑事「それはいいね。君の家を家宅捜索した時にパソコンは押さえてある。」
殺し屋「暗号化されているので中身はまだ見ていないはずですが」
刑事「パスワードを教えてくれる?」
殺し屋「はい、私の生年月日のあとにデューク東郷とローマ字で続けてください。ゴルゴ13の大ファンなンです」
刑事「助かるよ。どうもありがとう」
殺し屋「どういたしまして」

裁判はレモン市場

人類が血族を中心にした小集団から、血のつながらない同士の大きな社会を形成するようになって、社会の秩序に反するメンバーを罰する必要が出てきました。犯罪や刑罰の種類は文化によって異なります。しかし、どのような文化でも裁くことは嘘をどう扱うかという問題に対処する必要があります。

被告を裁くとき
(1) 犯罪を本当に実行したのか
(2) 動機は何か
(3) 計画性はあるか結果を予測できたか
(4) 薬物、精神疾患などの影響はあるか
(5) 被害者に落ち度はないのか
(6) 環境は同情すべき点はあるのか
(7) 改悛の情はどの程度か
など色々なことを考える必要がありますが、全てに対し犯罪者は嘘をつく可能性があります。裁判官や裁判員を中古車の購入者、被告を中古車屋と考えると、被告の心の中は中古車と同じで購入者つまり裁判官からは完全には判りません。裁判とは裁判官と被告の間に情報の非対称性があるレモン市場だと言うことができます。

こんな例えを言うと、裁判と中古車は違うとか、裁判官や司法関係者は中古車の購入者と違って徹底的に証拠を吟味するといった反論がでるかもしれません。しかし、現実に冤罪というものが発生することを見ても、裁判での吟味が完全であるとの主張は明らかに間違いです。被告には自分の罪を少しでも軽くしたいという強いインセンティブがある限り、証拠の吟味をしても被告側の嘘もそれ以上に巧妙になる可能性があります。

裁判がレモン市場だとしても、このレモン市場はチェリー車つまり無罪だったり、本当に罪を軽減する事情を持っている被告も参加させられてしまいます。中古車であればみすみす叩かれるとわかっているのにチェリー車の持ち主は中古車市場に自分の車を出さずに友人に売るようなこともできるのですが、裁判を避けることはできません。

アカロフのレモン市場の理論では、レモン市場ではレモン車の存在というリスクがあるので、チェリー車の価格は本来の値段よりは安く、レモン車は本来の値段より高く取引されます。これは裁判で言えば、嘘をついて罪を軽くすることに成功する被告がいる一方、本来ならもっと軽い罪で良いはずなのに嘘をついている可能性があると判断されて、重い罪になってしまう危険があるということです。

顔つきがいかにも悪人に見える、被害者が美人で有名大学の学生だ、などは判決で考慮してはいけないのですが、本当に判決と無関係と言えるでしょうか。また、「心から罪を悔い改めています」などと言っているのは「この車は持ち主が丁寧に乗っていたので、程度は最高です」と中古車屋が言っているのと同じかもしれません。

レモン市場ではレモンはチェリーが損をする分本当の価値より高く売ることができます。しかし、レモンへの警戒心が強いと市場の価格はレモンの値段に近づいていきます。これは裁判では本当に悔いている被告を不必要に重い罪にすることになります。

取引で嘘をつくことの利益があり、嘘が簡単には見破れない場合、市場はレモン市場になります。アカロフの理論に対する反論であったように、中古車屋も評判を気にするということはあるでしょう。買ってすぐバッテリーがダメになったり、エアコンが夏を越せず何十万も出費しなければならなくなったら、その中古車屋を友達に紹介する気にはなりません。しかし、重罪の被告人にとっては次回の裁判を気にしている余裕はありません。裁判がレモン市場になることを避けることはできません。

夫婦の間はどうでしょうか。嘘ばかりついていると、「もう二度と浮気はしません」と謝っても信用されるのが難しいのは間違いありません。しかも嘘を見抜く能力は男性より女性の方が優秀なように思えます。進化論的には嘘をつきだしたのはメスの方が先で、オスが嘘をつくようになったのは、長い子育てが必要な人類が現れてからのはずなのですが、女性は急速に嘘を見抜く力を進化させたようです。人類の男女には嘘つく能力、見抜く能力の非対称があるようです。

 

(本記事は「ビジネスのための雑学知ったかぶり」を加筆、修正したものです。)


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馬場 正博 (ばば まさひろ)

経営コンサルティング会社 代表取締役、医療法人ジェネラルマネージャー。某大手外資メーカーでシステム信頼性設計や、製品技術戦略の策定、未来予測などを行った後、IT開発会社でITおよびビジネスコンサルティングを行い、独立。

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