人工知能への長い道(1)|馬場正博の「ご隠居の視点」【寄稿】

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ノイマン型コンピューターの誕生

ヨーロッパでは連合軍がノルマンジー上陸をはたして2か月がたち、戦闘が一層激しさを増してきた1944年の8月のある日、戦地から遠く離れたアメリカの首都ワシントンから程近いアバディーンの人影も少ない小さな駅で、若い陸軍大尉のハーマン・ゴールドスタインは、フィラデルフィア行の汽車を待っていました。

ゴールドスタイン大尉はアバディーンにある陸軍弾道研究所とフィラデルフィアのペンシルバニア大学を忙しく往復を繰り返していました。そのころ、ペンシルバニア大学では世界最初の電子式デジタル計算機、ENIACの完成が近づいていたのです。

ロンメル将軍率いるドイツ軍と北アフリカで戦ったアメリカ軍が見た地形は、経験したことがないものでした。そのため、アメリカ軍は砲弾の着弾点を予測するための弾道表を全面的に刷新する必要に迫られていました。短い時間の間に膨大な計算をすることができる機械が必要だ。ゴールドスタイン大尉は切迫した思いで解決策を探し求めました。

天才ノイマン

ENIACはペンシルバニア大学の助教授だったモークリーと大学院を出たばかりのエッカートという、二人の優秀で野心的な技術者によって開発されました。30トンの真空管と電気機器の塊を作るというENIACの構想は当時としてはあまりに破天荒で、平時なら誰も必要とされた莫大な資金を投じることはないようなものでした。しかし、数学博士でもあったゴールドスタイン大尉の熱心な働きかけや何よりも戦争という緊急性が追い風となって、ENIACプロジェクトは開始されました。

ゴールドスタイン大尉は汽車を待つ人の中に良く知った顔がいることに気がつきました。知人ではありません、見覚えのあるその顔はハンガリー出身のユダヤ人で20世紀最大の数学者の一人とされるジョン・フォン・ノイマンのものでした。

1903年にブダペストに生まれ、フォンという貴族風の名前を持つノイマンは逸話の多い人でした。中には読書しながら車を運転して木に激突したとか、女性のスカートの中をのぞく趣味があったという、あまり好ましくないものもあるのですが、大半は驚異的な頭脳に関するものです。

6歳で8桁同士の割り算を暗算でした。8歳で微積分をマスターしていた。電話帳の1ページを上から下まで指でなぞって、電話番号の合計を言うことができた。さらには、シェークスピアの戯曲を冒頭から空で読み上げ、止められるまで言い続けた、など人間離れした記憶力、計算能力を物語る無数の話が残っています。

一つ一つの話の真偽は確かではありませんが、ノイマンが次元の異なる知能を持っていたのは間違いありません。知人の一人はノイマンの葬儀の時、「ノイマンは人間ではなかった。長い間人間と一緒にいたので、真似がうまくなっただけだ」と言いました。これも一つの真偽不明の逸話に過ぎませんが、宇宙人か悪魔ではないかと思えるほどの頭脳をノイマンは持っていたのです。

1930年にアメリカに移住し、アインシュタインやゲーデルとともにプリンストン高等研究所のメンバーに選ばれたノイマンは、数学だけでなく、量子力学、経済学、生物学など広範な分野に次々と業績をあげていきます。

ノイマンの多くの功績の中で、経済学者のオスカー・モルゲンシュテルンとともにゲーム理論の創始者となったことがあります。対立するゲームプレーヤーが互いの利得を最大化する戦略を取るというゲーム理論の枠組みはその後、冷戦時代の恐怖の均衡など経済学だけでなく政治、社会にも大きな影響を与えていきます。

後年ノイマンはタイム誌へのインタビューに答えて、「ソ連との核戦争が避けられないのなら、核攻撃を明日するのではなく今日すればよい。5時にするなら1時にすればいい」と言っているのですが、いかにもゲーム理論の創始者らしい意見と言えるかもしれません。

EDVACプロジェクト

第2次世界大戦では、多くの科学者、技術者が戦争協力をしていたのですが、この発言でもわかるように、ノイマンは科学者として軍事への貢献に積極的でした。ノイマンは原爆開発プロジェクトのマンハッタン計画の主要なメンバーの一人として、原爆製造でもっとも重要な技術である爆縮レンズのためのZND理論を構築し、数値解析によって32面体に爆薬を配置することで原子爆弾が実現可能であることを示すという実績をあげています。
一介の陸軍大尉にはマンハッタン計画は知る由もなかったでしょうが、ENIACの完成にノイマンの頭脳が使えたら・・、ゴールドスタインは勇気を出してノイマンに話しかけました。

偉大な科学者としての地位を確立していたノイマンですが、人柄は気さくで、若いゴールドスタインとの会話はすぐに打ち解けた和やかなものになりました。しかし、ゴールドスタインが恐る恐る、「今1秒に333回計算できる機械を作っているんです」と口に出したとき、雰囲気は一変しました。それからのやり取りは「学位論文の審査のような鋭いものになった」とゴールドスタインは言っています。

結局このときのゴールドスタインとノイマンの会話がきっかけとなって、ノイマンはENIACプロジェクトに参加することになりました。ただ、ノイマンとモークリー、エッカートとの協力関係はうまくいかなかったようです。厳密な数学者のアプローチと、何はともあれ電気のモンスターを動かさなければならなかった現実主義の技術者とは、もともと反りが合わなかったのかもしれません。

ENIACに続いて開発が決定されたEDVACは事実上、今日のコンピューターの原型といえる特徴を備えていました。ノイマンはそのEDVACの基本的な論理構造を論文にして発表してしまいます。特許を取り、ビジネスにしていこうと考えていた、モークリー、エッカートにとって、ノイマンの行動は許しがたいものだったでしょう。二人はモークリー・エッカート社を設立し、EDVACプロジェクトから離れていきます。

モークリー、エッカートにとって許しがたかったノイマンの論文は、コンピューターの発展に決定的に重要なマイルストーンになります。ノイマンが記述したEDVACの論理構造は、ノイマン型コンピューターとして、現代的コンピューターそのものを表すようになったのです。

ノイマンの功績

ノイマン型コンピューターの定義で一番重要なのはプログラム内臓方式という部分でしょう。プログラム内蔵方式とは、プログラム自身がデーターとして蓄えられ、読みこまれ。実行されるということです。それ以前のENIACでは、計算手順は配線されていて、異なった計算を行うたびに配線をやり直さなければいけなかったのです。

しかし、プログラムがデーターとして取り扱われるというのは、料理のレシピと材料を同じ冷蔵庫に入れておくようなものです。プログラムとデーターが同じ出入り口を使うことで、コンピューターは本質的に一種のボトルネックを持つことになります。このボトルネックはフォン・ノイマン・ボトルネックとよばれ、今でもコンピューターの性能向上ではいかにこのボトルネックを解消するかが大きなテーマになっています。

ノイマンとモークリー、エッカートとの確執はその後も尾を引きます。モークリー、エッカートはプログラム内臓方式を始めとしたノイマン型コンピューターの構造は全て自分たちの発明であり、ノイマンはアイデアをまとめただけだと主張しました。

しかし、二人のそのような主張は、公正さを欠くように思えます。確かにプログラム内臓方式はノイマンの発案ではなかったのですが、モークリー、エッカートが最初に考え出したというわけでもありません。少なくともプログラム内臓方式のコンセプトは1930年代には存在していたことが、今では知られています。

実はENIACも「最初」の電子計算機ではありません。現在正式に世界最初の二進法式の電子計算機とされているのは、アイオワ大学のアタノソフとベリーの作った、二人の頭文字を取ってABC(Atanasoff Berry Computer)と名づけられた計算機です。

それでも一般にはENIACは世界最初の電子計算機と思われることが多いですし、モークリー、エッカートはその発明者として記憶されています。すでに存在したアイデアをまとめただけとはいっても、ノイマン型コンピューターとしてコンピューターの論理構成を明確に定義し世間に広めた点でノイマンの功績は正しく認められて良いでしょう。

ノイマンは1957年2月、52歳でこの世を去りました。核兵器開発に従事したことがおそらく原因となって、骨肉種を患ったのです。超人的な計算能力を持っていたノイマンも病状が悪化して、最後は3+4の計算もできなくなりました。

それでも、あまりに軍事機密に深く関与したノイマンが病気で錯乱して軍事機密を漏らすことを軍部は恐れました。ノイマンは厳重な軍の監視病棟に移され最後の時を迎えます。軍はノイマンが重要な機密をしゃべったら射殺しろと警護の兵に命じていたと言われています。

ユダヤ人の天才数学者ノイマンを殺したのは、ナチスのホロコーストでも、アメリカ軍の銃弾でもなく、自らが創り、十分な危険を認知しないまま近づいてしまった、核兵器の施設の放射能でした。20世紀最高の頭脳が、このような死に方をしたことは、私たちにある種の教訓を与えているのかもしれません。

 

(本記事は「ビジネスのための雑学知ったかぶり」を加筆、修正したものです。)


馬場 正博 (ばば まさひろ)

経営コンサルティング会社 代表取締役、医療法人ジェネラルマネージャー。某大手外資メーカーでシステム信頼性設計や、製品技術戦略の策定、未来予測などを行った後、IT開発会社でITおよびビジネスコンサルティングを行い、独立。

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