ギックスの本棚/読むだけですっきりわかる国語読解力(後藤武士 著)
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- POSTED : 2014.05.10 09:12
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文章力=読解力。文章力に自信がない人は読んでみよう。
本書は、「国語の試験問題を解く」という行為をベースにして書かれています。
しかし、実際には「国語力を上げる=文章力を上げる」という、実社会で生きていくために必要で重要な能力を鍛えるための書籍です。
日本語がぐちゃぐちゃな人=読解力が無い人
世の中には、頭は決して悪くないのに、致命的なほどに文章力が無い人がいます。また、「本をスラスラ読めない」、あるいは「文章を読んでも、曲解・誤解してしまう」という人も沢山います。
どうして、そんなことになってしまうのか。本書は、その謎を解き明かし、解決しようとします。
これまで国語の読解には決定的な参考書がありませんでした。理由はいたってカンタン。国語ができない人は文章が読めない。文章が読めない人に文章で物を説明することは、英語が分からない人に英語で英語の勉強を教えるようなものですね。
この本は、読解力に不安がある人が読解力を身につけることを第一の目的としています。
作文→読解を主張する国語の先生方が多くいらっしゃる。それはそれで一理あるかもしれない。けれど私はむしろ逆の順路をたどることをお勧めしたい。すなわち、読解ができるようになることで作文力もつけようというのである。(中略)読解の中心は筆者、作者の主張やテーマを読み取ることにあった。そしてそのために彼らは比喩を使ったり、具体例を使ったり、登場人物に語らせたりしている。ならば、この手順を踏めば無理なく読んでくれる人に認めてもらえるような文章が書けることに気がつかないか!
というわけで、めちゃめちゃ懇切丁寧に、日本語を解説し、「読解」できるように仕向けてくれるわけです。
「お前の日本語は酷い」「何言ってんだかわからん」「おまえ、、、ひょっとして理解してない?」などと上司や先輩に言われた経験のある方は、本書を一読することを”強く”お勧めします。
4つの対立概念
国語力の高い人にとっては、本書に書いてあることは全部「当たり前」です。然しながら「当たり前」であるが故に「無意識下で判断していた」ということがあるのではないでしょうか。(そして、それは、つまり「他人に説明できない」ということを意味します。)
例えば、この4つの対立概念、の下りは、非常によく整理されています。
読解ができる人、論理的な思考が可能な人、論議が上手な人の共通点は四つの対立概念を正しく理解していることにある。具体⇔抽象、絶対⇔相対、普遍⇔特殊、主観⇔客観。これらの使い分けは入試のほとんどの科目はもちろん、ビジネスにおいても日常生活でも欠かせない。にもかかわらず学校で学ばないことが多いし、教科書にも明記が無い。
このうち、具体的と抽象的の違いについてはこんな感じで説明されます。少し長いのですが、しっかり引用します。
学校で先生が「一学期(前期)の目標を立てなさい」と言った。
それに対してあなたは「がんばる」と答える。
たぶん先生はこういうだろう。
「もうちょっと具体的に」
そう具体的と言うのはひとつひとつ例をあげて細かく説明することだ。
「んじゃ、毎日勉強する」
(中略)
ところがこれでもまだはっきりしない。
だから「国語の言い換え問題を毎日やる」
(中略)
このあとさらに毎日何時間やるのか決めればもっっと具体的になる。
これが具体的。次に抽象的。
これが具体的の反対。
「ビートルズのCDが欲しい」
かなり具体的。
「60年代のロックのCDが欲しい」
ちょっとだけ抽象的になった。
「CDが欲しい」
おお相当抽象的。
こんな具合に抽象的と言うのは具体的の反対の作業をすること。
普通は具体的であることが喜ばれる。だってわかりやすいからね。ところがね、具体的すぎても困ることがあるんだ。
例えばこんな具合。
「ねえねえ、お父さん。SMAPか嵐かV6かTOKIOか少年隊のCD買ってきてよ」
これを聞いたお父さん、とてもじゃないが覚えきれない。何を買ったらいいのか分からなくて困ってしまうはず。
ところが「ジャニーズ系のアーティストのCD買ってきてよ」
これならすぱっとわかる。
(中略)
こんなふうに、抽象的だと「短くまとめて表現できる」という良さがある。これはつまり、いろいろなものや人や事柄の特徴をまとめることもできるということになる。
素晴らしい。「具体」と「抽象」を理解していない誰かに「具体と抽象の違いと意味」を説明しようとすると、これくらい噛み砕かないといけないわけです。が、これはなかなかできません。
つまり、国語力がある(という自負がある)人も、本書を読むことで文章読解スキルに関して、頭が整理されます。
もうひとつ例を挙げましょう。今度は「主観」と「客観」についてです。
「ここから駅まで歩いて十分」
「ここから駅まで歩いてわずか十分」
「ここから駅まで歩くと十分もかかる」
この三つ、客観的には同じこと言ってるよね。
(中略)
ところがこれを語っている人の気持ちはどうだろう?
全部同じだろうか?絶対にちがうよね。
この「違い」を生む「わずか」「十分”も”」といった言葉を「主観語」と呼んで、これを見つければニュアンスが分かる、と説いています。そっか、そうやって説明すれば伝わるのか・・・なるほど。
この応用として、でてくる文章も引用。
「この時間は一時間に一本ある電車が駅に着いた」
(中略)「この時間”は”一時間に一本”ある”」という言い方に注意。
普通は一時間に一本というのはかなり少ない部類だろう。にもかかわらず「しかない」という言い方ではなく、むしろ肯定的な表現になっている。そして、この「は」の性質を考えると「他の条件下では事情が異なる」ことが予測されるわけだから、おそらく他の時間帯はさらに本数が少ないだろう。多い時で一時間に一本しか電車が来ない。あまり大きな村ではないことが予想できる。
おお。まさに!という感じです。
というわけで、日本語力に自信のある人も、無い人も、本書を一度読んでみるのは悪くない選択だと思います。ほんとに。
(ちなみに、具体的と客観的の話をきいて、具体的と概念的という対立もあるのではないか?と思われた方は、コチラの関連記事をご参照いただくとよろしいかと思います)
日本語ができない、では社会人としてキツい
昨今のビジネス社会においては「グローバル化」が声高に叫ばれています。そして、その流れの中で「英語」に注目が集まっています。
もちろん、英語ができる、ということは非常に重要ですし、できて損することはありません。しかし、「物事をちゃんと考えることができる」ということは、グローバルだろうとローカルだろうと「社会人として当たり前」のことです。(必ずしも、日本語でなくても、英語で徹底的に論理的な思考ができる、ということであれば、それはそれで問題ないとは思いますが)
そもそも、日本国内で入手する大半の資料は日本語で書かれています。その記述のニュアンスを正確に理解する、あるいは、それらの情報を集約して誰かに伝える、というようなことをするのが仕事の基本動作なわけですから、日本語の読解能力が無いなんて、全くお話にならないわけですね。仕事というものは、「当たり前」の積上げで成り立っています。基礎ができていないで応用を目指すのは、歩けもしない幼児が「走りたい」と言っているようなものです。基礎力としての「日本語読解能力」「日本語記述能力」無くして、高度な仕事・高付加価値の仕事をするなんてありえません。
というわけで、一部の例外を除いた、一般的な「日本人」が「日本社会」においてビジネスマンとして生きていくのであれば「日本語で徹底的に論理的に考える力」を身につけることが必要不可欠です。
尚、本書じゃ簡単すぎる。自分にはベースとなる読解能力は十分ある。という自負のある方は外山滋比古先生の、日本語の作法 (新潮文庫)や、「読み」の整理学 (ちくま文庫) あたりをオススメ致します。
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